社会的な要請と覚悟と。

アウディのデザイン部門におられた,和田さん。


 彼がとある専門誌のインタビューに答えて,GT−Rは最後の自動車であるように感じられる,と。それほど,日本車は「クルマ以外の何か」になりつつある,とも言えるでしょうか。彼は続けて,アウディはトップレンジにあるA8であっても,クルマであることを意識するところから,デザインをはじめているのだ,と。


 確かに結果として,ブランド・ハンドリングの問題に行き着きはするけれど,もうひとつの方向へと突き詰めていけば,クルマ屋としての覚悟とも言えるのではないか,と思うのです。クルマであることを,どんなことがあっても止めはしない,と。


 今回は,フットボールとはまったく関係なく,ちょっと軽めにこちらのニュース記事をもとにしつつ,屋号方面な話です。


 二酸化炭素排出量の25%削減,という話が新聞に出ておりますが。


 最も手っ取り早く削減効果を引き出せるのは,実際には民間部門だと言います。そこで注目されるのが,クルマであろう,と思っているのです。クルマに関する環境技術,となると,日本市場ではハイブリッドがほぼ支配的な立場,でありますが,二酸化炭素排出量,という側面から見てみると,意外なオルタナティブが出てくるわけです。かつて,ペットボトルを使って視覚的に「悪者」とされたディーゼル,であります。


 欧州市場では,日本市場が最重要視してきた窒素酸化物に対する規制よりも,二酸化炭素に対する規制を先行させた,という事情があります。そのために,ハイブリッド・システムよりも次世代型ディーゼル・エンジン(コモンレール・システムに,ターボ・チャージ)というアプローチを選んだ,という側面があるようです。そのために,ハイブリッド・システムへの対応が,特に対北米市場であったり対日本市場で遅れてしまった,という側面がある,と。


 その遅れを感じさせないモデルを,メルセデスは“ブルーゼロE−CELLプラス”というコンセプトとしてまとめ上げ,フランクフルト・ショーで発表してきたわけです。となれば,「先発」のアイディアをそのまま踏襲するはずもありません。


 その基幹技術は,プラグイン・ハイブリッドであります。急速充電,あるいは家庭用コンセントを使ってバッテリへと充電,バッテリ容量が不足するとターボ・エンジンを通じて発電機を起動させ,モータ駆動と充電を,というシステム,とのことです。プラグイン・ハイブリッド,という言葉から,エンジンとモータが並立するシステムかな,と思われがちかも知れませんが,実際にはハイブリッド・システム,と言うよりも,EVに限りなく近いシステムを組んできたわけです。クルマに求められる,「理」の部分を,E−CELLプラスを通じて表現してきた,とも言えるでしょうか。内燃機関への依存を最低限度に抑えると同時に,まだ社会環境が整備されきってはいないEV的に使えるシステムを組んできた,と言えるように思うのです。


 ただ,クルマに求められるのは,「理」だけではない,と感じます。


 単純に,移動手段としての機能性を求めるのであれば,クルマである必要性や,必然性は薄くなりつつある,かも知れません。自らが操って,自らが行きたいと思うところに行けること,そのことがクルマがクルマである意味であるように思えますし,そのときに操る楽しさを感じられることも,クルマがクルマである意味,であるように個人的には思っています。その「操る楽しさ」はどんなクルマにもあるべきだけれど,その楽しさを煎じ詰めていったものがスポーツ・モデルでありましょう。そんなスポーツ・モデルを,メルセデスは見限ってはいません。


 クルマ屋が,クルマをつくっているという意識を確認する。クルマをこれからも作り続ける,という姿勢を見せる。そのために,時代的な要請を強く反映したモデルを発表する。同時に,「クルマらしさ」を前面に押し出したモデルをも,同じ舞台に持ち込む。これは,単純にブランドの話ではなくて,メルセデスがクルマ屋として生き続けていく,という覚悟を示しているように,個人的には感じられるのです。