道標(U−22最終予選)。

まずは,目標達成であります。


 確かに,安定した強さを発揮して予選突破,という形ではなく,最終戦近くになってチームが「加速態勢」を整えたような印象もありますが。むしろ,その「加速態勢」こそが,このチームにとっては重要な意味を持つのではないか,と感じます。


 U−22代表であります。


 国立霞ヶ丘での最終戦,ファイナル・スコアは0−0。


 スコアだけから読み取るならば,最終予選突破に向けた,最低限のタスクをこなしたことになります。得点を奪取して予選突破を決めることは,確かにできなかったわけです。ですが,このチームが「フットボール」をしていたという印象は,それまでのゲームよりも強く残っているように思うのです。


 フットボール。相手よりも多くの得点を奪取することが,勝利をつかむための必要不可欠な要件です。フットボールの持つ本質,とでも言いましょうか。となれば,攻撃面が重要視されるのは言うまでもないことです。そして,攻撃面での機能性を引き上げるべく,戦術であったりコンビネーションという要素が浮上してくることになります。


 とは言え,攻撃面だけでフットボールという競技は成立するはずもありません。


 「攻撃の端緒をつかむ」という要素が抜けているからです。


 90分プラスという時間すべて,自分たちで攻撃できるわけもない。相手のいる競技であれば,相手も当然,攻撃を仕掛けてくるわけです。その攻撃を受け止め,ボールを奪取することで攻撃の端緒をつかむ。となれば,フットボールの持っているもうひとつの本質は,「相手からボールを奪うこと」にあるはず。


 守備と攻撃は分離できるものではなく,両者の関係を言うならば「バランス」でしょう。ダッチ・フットボール的なエレガンスを理想として掲げるひともいますし,イタリアンな現実主義的な闘いを必要だとするひともいる。でも,「2項対立」なんかではない。「勝負に勝つ」という目的のもと,バランスさせるべき要素のはずです。
 さらに言えば。「闘う姿勢」は,ボールを奪うという部分においても強く求められるし,1on1でボールを奪取できないのであれば,どのようにして相手ボール・ホルダーへの数的優位を構築してボールを奪取するか,という部分が意識されなければならないはずです。そして,当然ながら「闘う姿勢」が前面に出ていくことがなければ,攻撃においても,ボール奪取においても相手の後手を踏むことになりかねないわけです。


 どこか,いままでのU−22のゲームは「闘う姿勢」が不鮮明だったように感じますし,攻撃にしても荒削りゆえの躍動感,のようなものも印象として薄かった。ですが国立霞ヶ丘のゲームは,そんな図式とはちょっと違ったように見えるのです。


 同じスコアレス・ドローとしても,相手の攻撃をひたすら受け止めるだけの90分プラスとは違い,相手から積極的にボールを奪い,攻撃を仕掛けていくという意思を基盤とした守備意識が貫かれていたし,攻撃面だけでなく守備面においても連動性を一定程度感じることができた。


 確かに,フィニッシュという部分では不満が残る。でも,「闘う姿勢」という基盤になる部分では,最終予選の最終盤になってやっと形が見えてきた。この点に関してはシッカリと評価したい,と思うのです。思うのですが,同時に「始まり」に過ぎないだろう,とも感じます。


 ごく大ざっぱに言えば,やっとチームとしてひとつの方向軸に乗ったような感覚が,アウェイでのベトナム戦あたりから出てきたように思うからです。恐らく,ひとりひとりの選手が持っているポテンシャルであったり,スキルを取り出せば高いものがあるのだろう,とは感じてきました。ですが,持っているポテンシャルやスキルが「チーム」として表現すべきパフォーマンスへとなかなか直結していかなかったように思うのです。この点が歯がゆかった。指揮官である反町さんも,イビツァさんが指向するフットボール・スタイルを意識したチーム・ビルディングをしているはずなのですが,その戦術的なイメージが,どこかブレを生じていた。と言うか,“パス・ワーク”によって相手守備ブロックを崩していくという部分的な(そして,スキルを背景とする技術的な)イメージだけが大きく先行してしまって,ボールをどのように奪取していくか,であったりもっとシンプルに「闘う意識」という部分で選手間の温度差を感じるようなゲームがあったように思うのです。局面ベースで見ればスキルフルなのだけれど,どこか淡泊な印象を与える。チームが悪循環に陥ったときに,誰もがその悪循環を断ち切れないような,ある種の「脆さ」であり「弱さ」を感じてきた,と言うべきでしょうか。


 ひとがかかわることだからこそ,心理面という部分は決して無視できない要素です。


 ひとの目には見えないけれど,間違いなく大きな鍵を握っているもの。恐らく,このチームでの優先順位が低かった,あるいは優先順位が高かったにもかかわらず,選手たちがその重要性に気が付かなかったのかも知れません。そんな「見えないもの」を,追い詰められたことでやっとつかんだのだろう,と思うのです。あるいは否応なく意識せざるを得なくなったのかも知れません。


 本来ならば,追い詰められる前に方向軸が束ね上げられれば,もっと早い段階でチームがスムーズに機能したようには思います。それでも。このチームが目標とすべきトーナメントはさらに先にあります。


 闘う集団として必要な要素が,やっと意識された。その要素を存分に生かすチャンスを奪取もした。この「始まり」を大事にしてほしい,のであります。