見直されるべき(かも知れない)原点とは。

いつからか,ちょっとおぼえていませんが。


 ここしばらく,欧州カップ戦を含めてあまり真剣にヨーロッパの情報はチェックしていません。


 もちろん,“Football”そのものを取り出せば魅力的なものであり続けています。ですが,リーガ・エスパニョーラプリメーラ)であるとか,プレミアシップなどを戦う有力クラブ,その展開するフットボールが魅力的なのだろうか?とふと思ってしまうのです。アウトサイダーにとって魅力的なフットボールが,本当にクラブを支え続けてきたひとにとっても魅力的なものであり続けているのだろうか,と。


 恐らく,私がまだロンドンに住んでいたならば,ウェスト・ロンドンやイースト・ロンドンに本拠を置くビッグ・クラブのチケットを取ろうとするよりも,ロンドン近郊の小さなクラブ,そのバックスタンドやテラスのチケットを取ろうとすると思います。


 フットボールをある種のエンターテインメント、あるいはアートとして位置付けるならば,オールド・トラフォードカンプ・ノウに足を運ぶかも知れない。でも,浦和やほかのJリーグ・クラブで感じられるような雰囲気を欧州でも味わいたいと思うならば,無理をしてでも下部リーグのゲームを見に行きたい。


 そんな意識にいつの間にか,なっている。


 そんなことを,クラブサッカーの危機(NIKKEI NET SOCCER@Express)と題された大住さんのコラムを読みながら,ちょっと考えてしまったわけです。


 ともすれば,大住さんの意見は懐古主義的な印象を与えるかも知れませんし,どんなフットボール・クラブでも持っているだろう(そして,持っていてほしい)野心を否定しかねないような印象を持たれるひともいるかな,と思うところは確かにあります。


 どんなスポーツであっても,プロフェッショナルであるならば「結果」は最優先項目です。その結果を引き出すために,積極的な選手補強であったり,財政的な基盤強化が必要となっていく。この文脈で言えば,欧州カップ戦を戦うビッグクラブの姿勢が間違っているということにはならないはずです。


 ですが,大住さんの指摘も,決して軽視できるものではないと感じます。


 プロフェッショナルに求められるのは,「結果」以外にもあるはずだからです。“Matchday”を特別なものたらしめているのは,単純にピッチで展開されるフットボールが強さを発揮しているからではなく,テラスであったりスタンドへと足を運んでいるひとたち自身が,それぞれに形は違えどクラブを支えているという「思い」を共有できているという部分があるからこそ,だろうと思うのです。テラスでチャントを歌い上げ,選手を鼓舞し続けることも,当然支えることにつながるでしょうし,メイン・スタンドやバック・スタンドで何十年にもわたってシーズンチケット・ホルダーとしての権利を手放していないようなひとも,クラブを支えていると言えるはずです。スペイン的にソシオ・アボナードと呼ぶか,それとも英語的にメンバーシップと表現するかはともかくとして,スタジアムに足を運び続ける,シーズンチケット・ホルダーはそのままクラブ財政を支える要素としても位置付けられているはずだし,クラブを追いかけ続けるひとは立場こそ違え,クラブ・エンブレムを挟んだ「仲間」として位置付けられていてしかるべき,だったと思うのです。


 そんなひとたちが,いつの間にか「お客さま」として扱われ,あるいは,お客さまとしても扱われなくなってしまう。その代わりに,競技場にはかつてとは違った空気が流れていく。サー・アレックスやロイ・キーンが明確に指摘したように。


 確かに,「快適な(安全性を伴った)観戦環境」という部分では,現代とかつての姿を比較するまでもありません。しかしながら,ストレットフォード・エンドやコップ・エンドのような「テラス(立ち見席)」を懐かしむひとたちはいまも多いと聞きます。テラスを懐かしむ意識を単なる懐古ととるだけでは,本当の意味が理解できなくなってしまうのではないか,と思うのです。単純に,立ち見がよかった,という意味ではなくて,クラブと自分たちとの距離感を懐かしんでいる,と見るのがより正確なのではないか,と思うわけです。そういう部分からいえば,この大住さんのコラムにも紹介されている“FCユナイテッド・オブ・マンチェスター”というクラブの存在は,いまの欧州リーグ戦が持っている「歪み」(という言葉が適切かはわかりませんが。)を示しているようにも思えますし,トップレベルのリーグ戦や欧州カップ戦を戦うクラブに対して,彼らがともすればどこかに置き忘れてしまったかも知れない(そして,場合によっては真剣になって見直さなければならない),クラブという存在の「原点」を突き付けているようにも思えるのです。