帰ってきたワークス。

YZF−R1というのは,個人的にはレースから結構遠い位置にいるバイクであるような感じがしていました。


 確か,1998年にリリースされた初期型は,レース・トラックよりもワインディングを主戦場としたバイクだったように記憶していますし,そのテイストはいまのモデルにも引き継がれているような気がします。とは言え,WSB(ワールド・スーパーバイク)の規定排気量,このケースですと4気筒エンジンでありますが,この規定排気量が750ccから1000ccに引き上げられ,市販車が持っているポテンシャルがレースでのパフォーマンスに直結するようになると,各メイクスともにレースを意識した設計をするようになってきます。


 そして,2006シーズンの鈴鹿8耐は,ファクトリー・チームが比較的多く鈴鹿パドックに帰ってきたシーズンであるようにも思います。パドックがちょっと華やかさを増したと言いますか。その代表格は,1996シーズン以来10年ぶりにワークス体制を組み直したヤマハでしょう。



 思えば,ヤマハ・ファクトリーと鈴鹿8耐との関係,そのはじまりは決して良いものではなかったような気がします。


 平忠彦選手とケニー・ロバーツ選手というコンビネーションでヤマハが乗り込んできたときのインパクトはハッキリ覚えていますし,デビュー・ウィンという言葉を当然の修飾語句のようにできるパッケージだったような感じがしていました。そして,決勝でのパフォーマンスも,安定しきっていた。にもかかわらず,優勝が目前になっていた時間帯でのスロー・ダウン,そしてリタイアというあまりにもドラマティックな展開はなかなか忘れられるものではありません。そのためか,ヤマハ・ファクトリーは不思議と意識のどこかに引っかかる存在になったように思います。


 1996シーズンのヤマハ・ワークスは,ポディウム中央を奪取することに成功しています。ヤマハ・ファクトリーにとっては4回目の総合優勝です。そのときのライダーは,芳賀紀行選手とコーリン・エドワーズ選手。2006シーズン,ヤマハ・ブルーレーシング(#45)としてエントリーされたパッケージとまったく同じだったわけです。


 そして,R1に施されたカラーリングは,ヤマハを象徴するストロボではなく,むしろ1990年シーズンの優勝車であるTECH21カラーを彷彿させるブルーとブラックのコンビネーションでした。トルネード・カラーをまとった「特別な存在」がある私としても,ちょっと気にはしていました。
 ですが,彼らはレース開始直後,2周目にはアクシデントを原因としてマシンを止めてしまう。ある意味,参戦初年度以上に予想外な結末だったように感じます。


 レースというのは,何事もなく安定して走りきれることもあれば,突然のアクシデント(メカニカル・トラブル)に巻き込まれることもある。ロジカルさと理不尽さが,当然のように同居している世界であるように思います。


 そんな世界にワークスが戻ってきてくれた。良いことばかりではないはずですが,それでも参戦を続けていって欲しい。そう思うのです。