DFV時代のトップ・フォーミュラ。

ひとによっては,最も評価が低い時期かも知れません。


 私にとっては,最も魅力的な時期です。レース屋が,レーシング・マシンに自身のアイディアを落とし込むことで,勝負権を奪い得た時期であるように思うからです。もちろん,シャシー・エンジニアリングにしてもエアロ・ダイナミクスにしてもごく初歩的な段階に過ぎませんが,シャシーの重要性が認知された時期,空力特性がレーシング・マシンにとって大きな意味を持つことが認知された時期が,この時期に重なるように思うのです。




 今回はフットボールを離れましてクルマの話,と言うよりはレーシングな話を書いていこう,と思います。ここではあまり取り上げないフォーミュラ1の話をちょっと書いてみよう,と思います。


 とは言いながら,チームオーダーに絡む問題が表面化したマレーシアでのレッドブル,の話ではなくて,1960年代中盤から1980年代中盤まで,フォード・コスワースDFVが活躍した時期の話であります。


 事の始まりは,技術規則の変更であります。


 1500ccと規定されていた排気量が,3000ccへと引き上げられることになったわけです。この技術規則に対応するエンジンとして開発されたのが,DFVであります。フォードとの関係性が強い時期に,モータースポーツを見始めていたために,フォードが技術屋集団であるコスワースに委託する形でDFVを開発していたのかな,と思っていたのですが,実際には“バッジ・エンジニアリング”であります。コスワースがすでに開発中であったインライン4,“FVA”エンジンをベースに,3000ccの規定排気量に合致するエンジンを仕立てたのだと言います。このエンジンを結合するやり方,フォードも意外とやっておりまして,PAG傘下に入っていた当時のアストン・マーティンが“ヴァンキッシュ”をリリースしたときも,既存のV6エンジンを結合する形でV12を仕立てていた記憶があります。


 このエンジン,もともとはロータスへの独占供給だったのですが,フォードはDFVを市販する,という決断をします。フォードとの関係がはじまる,そのきっかけを作ったのはロータスのボスである,コーリン・チャップマンだったわけで,ロータスとしては高い能力を持つエンジンを独占的に使用したい,という意向は相当に強かったはずです。しかし,フォードとしては潜在的な顧客が多くいる,ということを感じ取っていたでしょうし,ロータスとの関係性よりも,フォードとしての存在感を強めることを選んだのではないか,と思います。


 ロータスのことを思うと心中複雑ではありますが,フォードの決断が結果として,レーシング・マシンの進化を促したように思うのです。


 レーシング・マシンとして,勝負権を奪い取るためには,エンジンとは違う部分で「タマ」を用意する必要性が出てきます。シャシー・エンジニアリングの側面で優位性を構築しようとするコンストラクターも出てくるし,エアロ・ダイナミクスによって優位性を獲得しようとするコンストラクターもいる。いまにつながる,マシン設計の基礎がこの時期に培われた,と見ることができるように思うのです。


 DFVによって,フォーミュラの世界からは華やかさが失われた,と見ることもできるでしょう。ファクトリーが参戦する意味が,実質的になかった時期とも見ることができるから,です。ただ,歴史的にフォーミュラ1はメーカが前面に立つと言うよりも,各レース屋が個性を争っていた,という印象も強いものがあります。そんな側面が,ハッキリとレース・トラックに投影されていた時期だから,リアルタイムで知らない時期ではあるけれど,ある種の憧れを感じるのかも知れません。