浦和駒場のこと。

歩き慣れた,というのはかつての話だけど。


 街並みだって変化しているのだけれど。


 それでもやはり落ち着くものだな,などと思いながら,R463バイパスへと抜ける道を歩いていました。バイパスに出て,ディーラ裏の側道に入って,産業道路を跨ぐ歩道橋を上がると,かつては見慣れていた風景が変わらずにそこにありました。リーグ戦でもないしカップ戦でもないから,フラッグ・ポールには対戦相手のフラッグが掲げられてはいないし,JFAのフラッグも掲げられてはいません。第4次改修を終え浦和がネーミング・ライツを取得した,その記念であることを示すように,さいたま市と浦和のフラッグが掲揚されていました。



 日曜日の話を,徒然に書いていこう,と思います。


 この日の浦和駒場は,すべてのスタンドが開放されていました。そのため,入場ゲートがメイン側ですと2ゲート,バック側ですと西ゲートが用意されていて,どちらに並ぼうか,と考えたのですが,やはり個人的にイメージする駒場に忠実に,西ゲート側に並ぶことにしました。ピッチを俯瞰的に見通すのであれば2階の視界はなかなかにいいな,と思いますし,高円宮杯だとか高校サッカーでもなければなかなか縁がなかったメインスタンドに,という意識もどこかにあったのですが,最も駒場らしいピッチへの視界とは,という意識が自然とバックスタンド方向,と言っても,金属製の手すりが設えられているテラス,ではなくて,2階スタンドの張り出しなどがちょっとばかりイングランドの競技場を思わせる,バックスタンド後部に向かわせた,というわけなのです。


 試合内容,の話をするのはちょっとばかり無粋かも知れません。知れませんが,ちょっとだけ振り返りますと。


 「決めるべきひと(と言えば,福さん以外にはおりますまい。)」が決めるべき局面を決めきれなかった,そんな局面もあったりしましたが,先制点を含めて2得点を奪い,佐藤さんも決めるべき局面を外しつつ,でもしっかりとゴールを奪ってその後の特設実況席(つまりは,岩沢さんとの軽妙なトーク,であります。)で「現役時代と同じ」とアピールしたり。いまでは,アカデミーの大事なコーチング・スタッフでもある信康さんは,現役時代と変わらぬエンターテイナーぶりを披露してくれていたし,前半には対戦相手のキットを身に付けていたはずのひと(と言えば,の水内さんですね。)も,ゴールを決めてくれました。そして,エスクデロさんはやっぱり(と言って,当然なのですが),セルヒオ選手と同じリズム感と言いますか,間合いを持っているのかな,と思わせるものがあったり,培われたゴールへの嗅覚というのか,テクニックというのはそう簡単に色褪せるものではない,ということを実感させる,そんなゴールを見せてくれました。


 しかし,ファイナル・スコアでもなく試合内容でもなく,浦和が積み上げてきた20年という時の流れを,90分という時間枠の中で存分に楽しめたこと,がこの試合での最も大きな収穫なのかな,と思うところがあります。試合を前後半に分けて選手を入れ替える,だけでなく前半,後半それぞれ45分間をさらに2分割して選手を入れ替える,それだけのひとたちが今季のファースト・キットを身に付け,駒場のピッチに立ってくれたことがうれしく思うのです。在籍期間の長短はあるとしても,浦和のキットに袖を通したひとたちが,浦和の歴史を刻んできた駒場のピッチに立った。そのことがうれしく思ったわけです。


 そしてもうひとつ,うれしいことが。


 OB会会長である土田さんは,この日駒場へと来てくれたギドにコメントを,と促します。そのギド,冒頭のあいさつを終えるとちょっと待ってください,と。コメントの最初,あるいは最後のメッセージは日本語で,というのはありうる話だけど,コメントの細かい部分までさすがに日本語,というのは難しいはず。誰が通訳を担当してくれるのかな,と思うと,懐かしきひとがピッチサイドから姿を見せてくれました。かつて,駒場のピッチサイドで監督の意思をピッチへと伝えてくれていた,山内さんの姿だったのです。杖を使われながらマイクサイドにまで歩を進めると,ギドのコメントの通訳をはじめてくれました。その言葉はすごく力強いものでした。戻ってきてほしいひとが,戻ってきた。そんなことを実感させる,力強い言葉だったように感じます。


 浦和の歴史をつくってきたひとたちに会えた。そんな感触を持つことのできた,日曜日の午後だったように思います。