公私別とす。

ちょっとばかり,時代がかった表現かも知れませんが。


 何かに対して批判的な視線を向けるときには,決して忘れてはいけない要素だと思っています。


 ある物事に対して批判的な視線を向けるときに,何らかの「私」が関与してしまうと,その批判は違った性質を帯びることになってしまう,と思うのです。個人的な好悪を,議論や批判の場に持ち込むべきではない。議論,あるいは批判は物事,アイディアであったり考え方,手法などに対して向けられるべきであって,“パーソナリティ”そのものに対して向けられるべきではない,と。


 たとえば,チーム・ビルディングの前提ともなっている,戦力観察がしっかりとされていたのかどうか,という視点を持つ。決して不思議なことではありません。チーム・ビルディングにおいて,チーム内競争をどのように機能させようとしているのか,という視点を持つ。これも,決しておかしなことではありません。その疑問を持った結果として,批判的な視線を向けたとしても,それは不自然な話ではない。
 ないけれど,批判的な視点にパーソナリティに関わる要素をセットにしてしまえば,どんなにロジカルな批判であっても,その批判は中傷と区別が付かないことになる。


 確かに,今季のチーム・ビルディングはごく初期段階から戦力構成とのインバランスを内包していたように感じます。ファースト・チームの個性,特性を的確に把握した結果として,狙うフットボールを描いたのではなくて,狙うフットボールに対して戦力をシンプルに当てはめていく,というアプローチを採用してきたように見えます。部分的には,このポテンシャルを引き出したかな,とも感じるけれど,ユニットとしての機能性を削り取ってしまった,機動性という武器を結果として捨て去ってしまったようにも感じるのです。
 さらには,ポジション・フットボールであってもリズム・コントロールであったり,ポジションを維持するための機動性が求められるはずなのに,不思議とそのための機動性,という話が出てこなかった。コーチング・スタッフが思い描くポジション・フットボールと,フットボーラー・レベルでのポジション・フットボール,その2つのイメージがどうもずれたままだったのではないか,と感じますし,そのズレを修正しようとしてきた印象が,残念ながら見えてきていない。コーチング・スタッフとフットボーラーとの意思疎通がどこかで滞っているのかも知れないし,正確なニュアンスが伝わりきっていないのではないか,という印象もある。


 個人的にも,今季,こんな疑問を持ちながらエントリを書いてきていますし,なぜ何度もきっかけをつかみながら現実主義的なハンドリングをしないのだろうか,という疑問を持ってきているのも確かです。けれど,ジェリコというパーソナリティへの思い,あるいは感情というのはまた別の問題,と思っているのも,また確かです。浦和をいつか率いたい,という思いを衒うことなく口にしてきた,そんなパーソナリティに対する思いは,まったく別の要素であって,持ち込むべきでもなければ,その必要もない,と。


 そう思うだけに,フットレリーフにまつわる話はあまりに寂しい話に思えるのです。