対清水戦(11−26A)。

「個」が重要な要素となっているフットボール


 当然のことだろう,と思います。しかし,「個」が重要な要素となっていることと,「組織的な要素」が相反する関係にあるとは決して思いません。「個」が持っているパフォーマンスをしっかりと引き出し,そのパフォーマンスを空回りさせないためにも,組織的な要素は決して抜け落ちてはならないはずだ,と思うからです。


 「個」という部分を強調することで,「組織」,あるいは戦術的な約束事や枠組みを(相対的に,であるとしても)軽く見ているから,ピッチ・コンディションなどの外的要因に合わせて自分たちのフットボールをアジャストする,というアプローチをしようとしても,「自分たちのフットボール」という部分で立ち止まることになるし,戦術的な約束事を最も強く感じられていいはずのセットピースで,不思議と約束事が感じられない。


 アウェイ・マッチな清水戦であります。


 カップ戦,という手掛かりをつかんでいるわけですから,カップ戦での戦い方をベースとして,どのような微調整,パッケージ変更を必然的に伴う微調整を今節の対戦相手に対して施してくるのか,という見方をしていたのですが,実際には微調整ではなくて,(ネガティブな意味での)オリジナルに戻ってしまった,という印象です。
 端的に書いてしまえば,オリジナルなフットボール「距離感が硬直してしまっている」ところに大きな問題がある,と感じています。攻撃面でも距離感を変化させたい局面で距離感を無理に固定してしまっているネガティブがあるように感じるし,守備応対面でも,数的優位を作ってボール奪取を,というタイミングでも数的優位がそもそも選択肢にないから,ボール奪取位置が自分たちで描いたエリアに収まらなくて,不安定に上下動してしまう,というネガティブを抱えてしまう。もっと根幹に関わることを書けば,どのエリアでボールを奪いたいのか,という部分でチームの意識がズレを生じることさえある。高いエリアで奪いたい,ボール奪取からの攻撃はシンプルに速く,という意識があると同時に,相手ボール・ホルダーをしっかりと追い込んでから網に掛けるようにボールを奪いたい,という意識が不思議に併存してしまっている。そのために,複数の距離感がひとつのチームに存在するかのように感じる,と。チームが低く構えるのか(ボール奪取のイメージは,リトリート的なものになりましょうか。),それとも(あくまで相対的に,ですが)高めのエリアに構えるのか(プレッシング・フットボール,という方向性でありましょう。),というごく基本的な要素から,約束事が徹底されている,チームがひとつの戦術イメージでしっかりとバインドされている,という印象が薄過ぎる。


 約束事,というフレームがまったくと言っていいほどに機能していないから,誰かがしっかりとスペースを狙ったフリーランを仕掛けているとしても,その戦術イメージがボールを保持しているフットボーラーと共有されているとは限らない。逆に,ボール・ホルダーが相手守備ブロックを突くための戦術的なイメージを持っているとして,そのイメージを表現するような動き方を,ほかのフットボーラーがしてくれる,という確信が持てなくなっている。戦術という裏付けがなく,確信が揺らいでいるから,どうしてもボール・ホルダーの視界が狭くなっている。「使われる」ための動き方をしているフットボーラーが視界に収まっていかないし,ユニットとしての戦術イメージがなかなか深まることがない。


 ごく基本的な約束事,戦術的なイメージの再確認にまで戻らないと,チームとしての機能性が取り戻せなくなる,そんな段階にまで踏み込んでしまっているように感じます。