設計図。

浦和にとって,とっても大事なひとが旅立たれた。


 GMを退任されたときも,ちょっとばかり早過ぎるのではないかな,と思ったのですが,今回もやはり早過ぎる,と思います。時計の針を戻すことは当然できるはずもないのだけれど,できることならばもうちょっと長く,GMとして浦和を見ていただきたかった,という思いがどこかにあったりもします。


 しますが,「これではいけない」という思いもやはり,どこかにあるのです。


 森さんは,恐らく皮膚感覚でクラブ・マネージメントとチーム・マネージメントとの関連性を意識されていて,しっかりとしたチーム・ビルディングをするためには,しっかりとしたクラブ・マネージメントが求められる,という意識を持っておられたのだろう,と推察します。
 浦和というクラブがどうあるべきか,という設計図があって,その設計図をもとに,どのようなチームを持っているべきか,という構造物を組んでいく。そのために必要な戦力を整備し,指揮官を選ぶ。
 浦和というクラブが失ってはならない「軸」とは,浦和というクラブがどうあるべきなのか,という設計図であって,その基礎構造をクラブに関わるすべてのひとが共有することではないか,と思うのです。誰かが描いたブルー・プリントに依存している段階では,浦和というクラブを誰もが描いていることには到底なりません。森さんが描いたブルー・プリントはその後の浦和を決定付ける,すごく重要な設計図になったけれど,この設計図をもとにより詳細な設計図,あるいは時間経過に伴うアップデートを加えた設計図が描かれてきた,という印象は残念ながら薄い。


 どうも浦和は,「誰か」にクラブの設計図を委ねる傾向が強いのかも知れません。


 そのために,誰もが同じ設計図を持っている,という状態に近付くことができなくて,設計図を手掛けてきた「誰か」がクラブを去ってしまうと,クラブに残っているべき設計図までもが失われてしまうような印象を与えるところがある。


 継承されるべきものは,恐らく森さんの手法そのもの,ではないのかも知れません。むしろ,森さんがどんなクラブの理想像を描いていたのか,森さんが描いていた,浦和というクラブの姿ではなかったかな,と思います。“THE PRIDE OF URAWA”というフレーズに相応しいクラブとはどのようなものか,という言い方でもいいかも知れません。


 森さんが描いた設計図をいまいちど引っ張り出して,その設計図の重要性を再認識すべき時期,必要に応じて新たな設計図を書き足すべき時期なのかも知れない,と思ったりします。