めぐりめぐって。

石油天然ガスカップとはね。


 さすが千田さん,であります。なかなかわかりやすい表現であります。


 いささか,時機を逸しておりますが,ワールドカップの話を書いてみようかな,と思います。


 2018ワールドカップを開催することになったのはロシア,2022ワールドカップに関してはカタール,と。当たり障りなく,表面的なことを書けば,FIFAは「初開催」を強く意識したということになりましょうが,要は「資金的な背景」を強く意識したということでありましょう。2022招致失敗,という言い方もありましょうが,個人的にはいいではないか,と。そもそも,不祥事がチョロチョロと見える(ということは,実際の問題は遙かに大きいはず)FIFA相手にオールインするほど価値があるか(闘いの舞台とはまったくの別問題ですよ,念のため。)と思ってしまうのですね。


 まあ,個人的にハッキリと書けば,リソースの無駄遣いもいいところだな,と。


 もちろん,なかなか反論しにくい「大義名分」ではあるのです。地域初,であったりというのは。でありますが,もともとリソースがある程度そろっている候補地があるとして,その候補地がなぜ落とされるに至ったか,明確な説明ができるのかな,と。FIFA基準を充足できない可能性が高いから,などと説明されるのかも知れないけれど,その基準が果たして妥当なのか。シビアな言い方をすれば,ワールドカップに「実際に参加できる」ひとというのはどうしても少数にとどまり,圧倒的に多いのはTVを通してワールドカップに関わりを持つ,という形のはず。そのために放映権が巨額なものとしてセットされるのですし,競技場の大きさは雰囲気の良さを直接示すものではあり得ません。加えて,大規模なスポーツ・イベントを開催したはいいけれど,大会終了後に大規模な競技場を維持できるケースがどれほどあるのか。


 ちょっと考えてみても,いろいろな反論が見えるはず。


 ブラッターイングランドをバッド・ルーザーとして非難していたけれど,FIFAだって「部分最適」な発想をしているように,個人的には感じます。大きくなった大会規模を,しかも高水準で維持できればいい。大会終了後は招致した政府なり,自治体が考えるべき問題で,FIFAがコミットすべき性質ではない,という意味において。


 さらに書けば,競技団体は誰のための商業主義化だったのか,すっかり忘れてはいないかな,と思います。


 そもそもは,1984年のロサンゼルス・オリンピックだったですか。オリンピックはどうしても政府のバックアップ(当然,資金的な)がないと開催できない,というネガティブを意識して,逆にバックアップが少なくても大会運営を可能にするべく,商業主義的なアイディアを落とし込んできたはずです。この考え方が,IOCだけでなく,FIFAやIAAF,さらには他競技団体へと広がっていった。つまり,開催地に対して「過大な財政負担(税金投入)」を求めないがための商業主義化であって,FIFAやIOCに関わりを持つ人間に利益を与えるためではなかった,ましてや組織に利益をもたらすためではなかった,と思うのですがね。それこそ,政府保証を求めるなどというのは,商業主義と全面的に相反する話ではないのかな,と思うのですけど。ユベロンさんも,どう思っているでしょうかね。


 ふと思うに,めぐりめぐって「政府のバックアップがないと」という形に陥っていた,1984年あたりの状態に戻ってきたようにも見えますし,資金的な規模を思えば,商業主義という「甘い果実」を知っただけ始末に負えない,というようにも感じられるところです。