童夢、ル・マンから卒業へ。

最初に思い浮かぶのは,やはりトヨタのグループCだったでしょうか。


 いわゆるレーシング・マシン,というフォルムをしているにはしているのだけれど,どこか市販車的なフォルムであったりディテールを持っていた。技術屋集団として,どの方向性を志向しているのか(恐らくは自社開発で市販車を,と変わらず思っていたのではないかな,と),いまにして思えば明確なメッセージを落とし込んでいたのかも知れない,などと思うわけです。でありますが,ル・マン参戦の裏側について言及しているコラム(童夢オフィシャル)を読んでみると,トヨタとの綱引きがあったようです。メーカとしてはファクトリー・チームとしての存在感を強めたい。技術的なコンサルティングを誰かにしてもらうよりも,自分たちだけでマシン開発に深くコミットしたい,と。いつしか,童夢トヨタとの関係がなくなっていたことには,そんな背景があったのか,と林さんのコラムを読んで納得したわけですが,それだけでなく,確かに厳しい環境でチャレンジを繰り返してきたのだな,と感じますし,であるならば,情熱の切れ目が,というのも決しておかしい話などではない,と思います。まずは,「おつかれさまでした」でありましょうか。


 さて。今回はフットボールを離れまして,オートスポーツさんのニュース記事をもとに書いていこう,と思います。


 日本を代表する,マシン・コンストラクター(技術屋集団)。


 レースの実戦部隊,という位置付けで見ることもできるかと思いますが,正確にはレース屋としての側面も持っているマシン・コンストラクターと表現するのが正確だろう,と思っています。冒頭でも書きましたが,1980年代で考えるならば,トヨタのグループCを手掛けてきていますし,マシン開発という部分で見ると,JGTCを主戦場としていたNSXを手掛けたのも彼らであります。そして,童夢さんはル・マンに挑戦し続けてきてもいるわけです。


 オリジナル・マシンへと大きく踏み出すきっかけとなったのは,林さんもコラムで触れておられますが,BMWが仕立てたLMPマシンの空力的なモディファイだったようです。さすがにモノコック中心部のイメージはもともとのBMWらしい雰囲気を残していますが,フロント・セクションのデザインは確かに後のS101を強く感じさせる形になっています。個人的にはオープントップのLMP1というのもなかなかに,と思っておりますので,新規定に対応して開発されたS102よりもエレガントな印象を受けたりもするわけですが,実際にル・マンを走らせるにあたってのトラブル,レース・トラックで発生しているわけではないトラブルがいささか多すぎた,と。
 また,当然ながらに露出度の問題もあるはずです。考えれば,メーカの明確な後ろ楯を持たずに,技術屋集団がレーシング・マシンを仕立ててル・マンに参戦(自分たちがレース・オペレーションを担当するか否かは別としても),となれば注目されても悪くないのに,となりますが,どうも「ファクトリー」と言うのか,ワークス至上主義があるのかな,と思ったりします。大規模な参戦体制がないと,どうしても大きく扱われない。まして,必ずしもレース・ファンではないひとたちからも注目されるドライヴァが乗るわけでもないとすれば,メディアとしてはなおのこと大きく扱う理由はない,となるのでしょうが,それでは冷淡だな,と確かに思うところがあります。


 レース・フリークとしては,「もったいない」という言葉以外が見つからなくもあるのですが,反面で林さんが示唆しているスポーツカー開発,どういうクルマが出てくるのだろう,という興味も強くなっています。