「ともに」ということ。

たとえば,政治的な側面。


 そういう入口から,この話をはじめることもできるでしょう。そんなエントリが,アーカイブにもございます。
 フットボールという競技を,政治的に利用しようとする勢力は,確かにいます。フットボールという競技は,その規模の大きさは別として,ナショナリズムであったりに刺激を与えるものでもあります。そして,競技場には熱狂というものがあります。これらの要素は,利用しよう,と思う人間にとって,魅力的なものに映るはずです。であれば,「主義主張にかかわらず徹底して」競技場へと持ち込ませるべき話ではない。今回問題となっている言葉はともすれば,競技場に持ち込むべきでない政治的な色彩,その色彩を持ち込むことになる大きなきっかけになり得るから問題がある,という言い方もできるかな,と思うのです。


 しかし。難しい方向に話を持っていく前に,もっと単純な言い方もできるように感じます。


 自らが追い掛けているクラブと「ともに」闘っている,あるいは歩いているのではなくて,クラブの足を引っ張ってしまうことになる,結果としてクラブの背後に襲い掛かるのと同じことになってしまう,と感じます。


 実際に,差別的な言辞が発せられたか,それとも違うのかとは離れて,一般論として。


 発せられた「言葉」は,その場が「公」の場所であれば,公的に取り上げられる可能性が発生します。そして,その言葉に対する責任は発した本人のみならず,追い掛けているはずのクラブにも掛かることになってしまいます。FIFAやUEFAがどのような取り組みをしてきたか,してきているか,を思えば,JFAやJリーグがどのようなスタンスでいるか,自然と見えてくるものと思います。個人的な言葉がメディアを巻き込む大きな問題に発展する,そしてその言葉が勝ち点剥奪や降格処分と引き換えになる可能性さえある(=それだけ根深く,そう簡単に解決する問題ではない,ということでもありましょうが),ということになるのです。


 かかる事態を導くことが,「ともに」闘うことか,歩くことか。


 フットボールという競技は,喜怒哀楽が煮詰められているような印象を持ちます。ともに,という意識を持っているひとは,喜びをクラブ,チームと分かち合いたいと思っているはず。でありますが,このようなことを引き起こしては,喜びを分かち合うどころか,クラブに哀しみを与えることにしかならないはずです。あまりにアンバランスな天秤,その片側に追い掛けているはずのクラブを引っ張り出していることになるわけです。これで「ともに」闘っている,歩いているとは言えないでしょう。


 クラブと「ともに」闘う,歩くとは,どういうことか。自分には,何ができるのか。少なくとも,クラブに必要のない責任を背負わせないためには,何をせざるべきなのか。
 責任の所在を明確にすること(そして,かかる言葉があったのかどうか)も,当然に重要です。同時に,責任の所在が明らかになればそれで終わり,という話でもないでしょう。クラブとともにありたい,と思うならば,誰もがしっかりと心しておかないといけない話だ,と思っています。