Without dislike or favour.

「やっぱり政治部テイストでしたか」。


 清尾さんのコラムから,想定していたことの裏打ちを得た,という感じであります。


 彼らは,「目の前のこと」にはあんまり,と言うか,ほぼ100%興味はないのだな,と。
 まあ,誰のことなのか,おおよその想像が付きますね。こういうときに,署名記事というのは意味を持ちます。


 今回は,フットボールど真ん中,というよりも,その周辺の話を。ちょっと,遠回しにイヤミを言いつつ,な話です。


 ふと,思い返してみますに。


 スポーツ紙では,しっかりとしたゲーム・レポートを読んだ記憶がないのです。誰かを中心にした“ストーリー”は,かなり読んでいる,と思うのですけど。厳しく言えば,独自の戦評を読んだ記憶がゼロです。失礼を承知で言うならば,各競技場のメディア・スタンドに「何のために」足を運んでいるのか,と。配信記事をもらうことと,ミックスゾーンで刺激的な言質を引き出すためなのか,と。


 スポーツ・メディアで,そこまでの紙幅はないのだから仕方ない。そんな反論もありましょうけども。


 では,日経のスポーツ欄をどう説明しましょうか。スペースが少ないなりに,「どう見たか」を書いています。さらに言えば,注目カードをひとつ抜き出し,コラムを仕立ててもいる。記者席でしっかりと「見ている」ことがうかがえます。配信記事を使っていないとまで言うのはフェアではないと思うけれど,少なくとも,「配信」記事だけで戦評をまとめてはいない。


 反面で,スポーツ紙各紙での主張はなかなかに欧州的でもあります。フットボールに限らず,プロフェッショナルは結果が最重要なのだから,結果を出せていない指揮官は更迭されるべきだ,と。欧州メディアだって,そんな方向性で書いているではないか,という主張が透けて見えるかのように。


 確かに,筋は通っていますね。ただし,「中抜け」で。


 やはり,「見る」という行為が抜けているからでありましょう。トレーニング・グラウンドで見る,であったり,スタジアムで見る,という行為が。


 「どういう要因で」結果が出せていないのか,という部分を掘り下げることが大事なのではないかな,と思うのです。これはある意味,アウトサイドではないとできないことですし,積極的に「見て」おく必要があることでもあるでしょう。そのときには,「好悪の感情を抜きにして」見ることができるのか,が問われるはずです。客観的に,ピッチで発生している問題点,その原因となっている(と思われる)要素を指摘しているならば,筋の通り方はかなり違ったものとなるはずです。なのに,政治部テイストなひとたちは,自分たちの主張ありきで「見る」ものを見てしまっているように思えるし,そもそも「見ていない」可能性もある。あるがままの現実ではなくて,自分の思う方向性へと現実を引き寄せているようにも感じるのです。そもそも,取材がしにくく,禅問答を強いられる指揮官,情報を巧みに管理しようとする指揮官を嫌がっているように見えるし,そんな個人的な感情が記事に透けている,ように思える。


 それでは,論に説得力が生まれるはずもない。


 アウトサイドの視点がまったく不要,などとは思わない。思わないけど,「バイアス」を外せないひとに,その視点をお願いしようとは思わないのも,また確かです。個人的には,(もちろん,実現可能性がゼロであることは承知ですが)財徳さんだったり吉田さん,そして大住さんあたりはどう見ているのだろう,と聞いてみたいですね。


 ・・・ひょっとすると,MDPの企画になっていたりして。