Hillsborough Memorial Service.

アンフィールド競技場を最初に訪れたときに通り抜けたのが,シャンクリー・ゲートです。


 瀟洒なデザインが施された門扉が,印象的なゲートです。そのほど近く,競技場としては不思議なほどに,厳粛な雰囲気を持ったスペースがあります。


 このスペースがつくられるきっかけとなった大惨事が発生してから,20年が経過しました。アンフィールドからコップ・エンドが姿を消したこと,そしてピッチへと緊急車両がアクセスできるように通路が確保されるようになったことなどの,あまりに不幸なきっかけになったとも言えるでしょうか。


 欧州カップ戦の話もありますが,今回はスポナビにアップされた時事さんの記事をもとに,リヴァプールをめぐる話など。


 イングランド中部に位置する,シェフィールド。


 UKでTVを見たひとならば,ともすれば見たことがおありかも知れません。“ウィルキンソン・スウォード”という,カミソリのCMを。シェフィールドは,刃物の街なのだそうです。


 ただ,斜陽の街だった時期もあって。そんな側面は,“フル・モンティ”で描かれています。


 フットボールで語るならば,シェフィールド・ウェンズデイシェフィールド・ユナイテッドが本拠地を構える街,であります。このうち,ウェンズデイがホーム・スタジアムとしているのが,ヒルズブラ競技場です。20年前,FAカップ準決勝の舞台として指名された競技場です。このヒルズブラへと駒を進めてきたクラブは,ノッティンガム・フォレストリヴァプールです。そして,リヴァプール・ファンが詰めかけたスタンドで,のちに「ヒルズブラの悲劇」と呼ばれることになる大事故が発生したのでした。


 たとえばストレットフォード・エンドに,コップ・エンド。


 「熱さ」の代名詞としても使われますが,当時の競技場には“テラス”と呼ばれる立ち見席が設えられているのが一般的でした。ヒルズブラも例外ではなく,この立ち見席が大惨事を招いたひとつの要因だとされます。されますが,この大惨事はさまざまな要因が積み重なるようにして発生した,と言うべきものだったようです。


 当時のイングランドは,フーリガニズムの嵐の中にありました。


 メイン・ロードやスタンフォード・ブリッジが,そのフットボール・スタイルで意識付けられるのではなく,フーリガンの存在によって意識付けられていたような時期です。そのために,スタンドとピッチを隔てる金網が設置されるようになっていたのだといいます。また,このときのチケッティングや入場管理がかなり杜撰だったとも聞きます。中立地開催ですから,基本的にはフォレスト・サイドにも,そしてレッズ・サイドにも50:50でチケットが割り当てられているはずなのですが,実際にはそのバランスが崩れていたと言います。そして,テラスのキャパシティを超えてもなお,ターンスティルを止めることがなかったようです。


 フェンスによって,ピッチへと逃げることもできない。できないどころか,テラスに向かう人波は途切れることがない。逃げ場を失った圧力が,どこに向かったか。


 そんな大惨事から20年が経過して,アンフィールドで追悼式典が行われたわけです。


 リヴァプールに関わるすべてのひとにとって,忘れることなどできないことでしょうが,フットボールに関わるひと,特に試合をオーガナイズするべき立場にあるひとたちにとってもまた,心に留めておかなければならない話ではないか,と感じます。