中野田での愚挙に思うこと。

個人的に思うことですが。


 フットボールには,喜怒哀楽が凝縮されているように思います。その喜怒哀楽を真正面から受け止めていくのが,スタジアムのスタンドなのではないかな,と。


 確かに,フットボールという競技を受け止めるスタジアムは,非日常空間かも知れません。ですが,ピッチを舞台として展開される喜怒哀楽は,ある意味で「日常」を煎じ詰めたようなものだ,とも思うのです。栄光ばかりに包まれた人生というのが想像しにくいのと同じように,勝利の歓喜ばかりに包まれたスタジアムというのもまた,なかなか想像しにくいものです。


 最終節,降格という厳しい現実を受け止めようとしているスタンドのひとたち。あるいは,すでにファースト・ラウンドでの敗退が決まっているチームを,最終戦で見つめるひとたち。彼らがどれだけの想いを飲み込んでいるか,フットボールという競技を愛しているならば,理解できるはずです。日常に寄り添っているかのような非日常だからこそ,フットボールという競技は魅力を持っているのではないかな,と思うわけです。なのに,今回事件を引き起こした人間は,単純に「非日常」だけを享受しようとしていたかのようです。


 そんなに甘いものではないはずです。


 そもそも,本当に勝負にこだわっていたならば,試合終了を告げるホイッスルがピッチに響き渡るその瞬間まで,席を立つことなどできないでしょう。どこかであきらめているから席を立ち,ペットボトルを集めに行ったのでしょう。アディショナル・タイムに,スコアが動く可能性だってゼロではない。確かに,「勝ち点3」を奪取できる可能性は失われているかも知れません。それでも,リーグ戦は勝ち点だけが重要なわけではありません。得失点差という要素を思えば,点差を詰めることにだって意味は十分にあるのです。


 フルタイムとなるその瞬間までピッチで闘っている選手(であるならば,しっかりと戦えるだけの戦術的なパッケージを必要とするはずですが,それはまた別の話。)と,スタンドでチームの勝利を願いながら闘っているひとたちとともに闘うことのできない,あまりに身勝手な人間を,フットボールを愛する仲間と呼ぶつもりはない。


 ともに闘う仲間ならば,フットボールという競技を愛する仲間ならば,勝利だけをピッチからもらうのではなく,いつかは間違いなく訪れる敗北を受け入れ,苦さを噛み締める覚悟を持ってスタジアムへ足を運んでほしいと感じます。