主管クラブとして、理想を守るための覚悟を。

理想として掲げ続けねばならぬ部分と,その理想を守るための覚悟。


 今回発生した問題は,理想を守るための厳しい現実にも相応のウェイトを掛けなければならない,ということを(本当に残念なことですが)示してしまったように思います。


 積極的に触れたい話ではありませんが,決して看過できるものでもありません。同じような過ちが繰り返されないためにも,ビジター・チームであるガンバ大阪,そして主管クラブである浦和からオフィシャル・リリースが出されたタイミングでしっかりと取り扱っておこうと思います。


 ごく大ざっぱに言うならば,事態が大きく拡がる前の段階で抑え込むことのできなかった運営,主管クラブである浦和の問題になるでしょう。
 火種となったのは,スターティング・ラインアップの発表があってから,キックオフまでの時間帯に投げられた水風船。恐らく,サーベイランス・カムをフルに駆使するプレミアシップなどでは,この段階でスチュワードが当事者を特定,即座に排除にかかるものと思います。


 フットボールという競技を純粋に楽しむのではなく,明確な意図を持って水風船をスタジアムに持ち込み(手荷物チェックをくぐり抜けていることも,問題とすべきでしょう。),スタジアムに足を運んでいるサポータ,フットボール・フリークに対する「物理的な挑発行為」として投げつけているのですから,スタジアムから排除されるべきなのは間違いないところでしょう。
 発端の段階で毅然とした対応を取れなかったがために,事態が不要に大きくなり,当事者と呼ばなければならない範囲が広がってしまうのみならず,有形無形で迷惑を被るひとが増えてしまう。当然,責任を負わせなければならない範囲も広がっていってしまうことになる。かかる事態を回避するためには,然るべき措置を講じる必要があった,と思うのです。


 ただ同時に思うのは,できることならば当事者の良心に委ねたい,という意識が働いたかも知れない,ということです。


 いまはJリーグサイドにおられる佐藤さんが触れておられた記憶がありますが,恐らく浦和は70年代のイングリッシュ・フットボールを理想として持っているはずです。フーリガニズムにスタジアムが覆われてしまう前のイングリッシュ・フットボールは,確かに魅力的なものだっただろうと思います。サッカー・クリックにエッセイを連載されていた拓海さんもよく触れておられましたが,テラスに詰めかける観客の熱気が文章からも感じられて,個人的にもリアルタイムで実感したかったという思いがあります。そんな,熱気が感じられるスタジアムを理想として,そしてスタジアムに足を運ぶひとたちを「お客さま」として扱うのではなく,同じフットボールという競技を愛する仲間として扱いたい,という意識があるように思うのです。


 理想論に過ぎる,かも知れません。


 知れませんが,ごく一部の不心得のためにこの理想を全面的に失うことほど,もったいないことはないと思うのです。かつて欧州が失い,必死になって取り戻そうとしているものを築き上げていくことのできるのがJリーグだとも言えるのですから,追い求めるべき理想を1970年代のイングリッシュ・フットボールとするのはおかしい話などではない,と個人的には強く思っています。
 ただ,理想を掲げ続けるのであれば,ある種の覚悟を決める時期だと思います。
 同じフットボールという競技を愛する仲間として扱うことがどうしても無理な行為に及んだならば,毅然としてその対象を排除に及ぶ。それが,ホーム・クラブのサポータ,ファンであろうと,ビジター・クラブのサポータ,ファンであろうと。
 本来ならば,機能を最大限に発揮させる必要のないサーベイランス・カムを駆使し,スチュワードと警察が連携して,徹底的な排除姿勢を見せる。この部分だけを捉えるならば,スタジアムに足を運ぶひとたちを「仲間」としては捉えていないように映るかも知れないし,窮屈さを感じることもあるかも知れません。その窮屈さはフットボールを愛するひとたちを「仲間」として扱い続ける,暴力に傾くことのない熱気をスタジアムに,という理想を守るために(現状において払わざるを得なくなった)代償と見るべきなのだろう,と思うのです。