足らざるものと。

4−4−2フラット。


 第2節,ドラガン・ストイコビッチが名古屋で表現したフットボールは,4−4−2フラットを戦術的な基盤とするものでした。アーセン時代の機能主義的なフットボールを彷彿させる,それでいて流動性という要素にはイビツァ・オシムのエッセンスをも感じさせるものです。モダンなフットボールを表現してきたわけですが,彼も就任当初はそんな戦術イメージを実戦で表現しようとしていました。4−4−2ダイヤモンドであったり,4−3−3であったり。


 この実験が成功していれば,浦和に組織性(機能性)を持ち込む,そのきっかけになったはずです。


 ただ,「大きな波風」を想定していなければならなかったのも確かでしょう。


 2006シーズンにおいて“DOUBLE”を達成したパッケージを,少なくともメイン・パッケージから外すわけですから,選手たちからの反発があるのも間違いないところでしょう。そのときに,どういうアプローチをしていたのでしょうか。


 問題がある,あるいは問題の根幹がどこに求められるのか,をアウトサイドから考える時に,「足らざるもの」という言葉が鍵になるかな,と思います。


 ということで,ちょっと前任指揮官に関して徒然に。


 どう言いますか,不完全なサー・アレックスのようだったのかも知れません。


 サー・アレックス。かなりの偏屈オヤジにして瞬間湯沸器だと思います。ドレッシング・ルームでディビッドに向かってブーツを投げつけてみたり,かつて右腕として重用していたブライアンを,「ガキの相手くらいしかできない」などと罵倒してみたり。


 しかしこのひとは,「足らざるもの」をしっかり理解していると思います。そして,ガキっぽいけれど人間味が明確に見えるひとでもある。「教師」と言うよりは,「現場監督」のように見えます。でありながら,冷静に全体をチェックできる,正真正銘のマネジャーだな,と感じます。罵倒していたブライアン・キッドにせよ,スティーブ・マクラーレンカルロス・ケイロスにせよ,アシスタント・コーチを重要視していることはうかがえますし,彼らの能力を本当に必要としているのだろう,と思うところがあります。ユナイテッドを長く率いていれば,戦術的な要素が摩耗してもおかしくはありません。また,チームの置かれた状況によって,アシスタント・コーチに求められる役割は変わってきます。そんな状況を冷静に判断しながら,タイミングに応じてアシスタント・コーチを選んでいるように映るわけです。


 さて顧みるに。


 コーチング・スタッフに,全幅の信頼を置いていたでしょうか。「足らざるもの」を補ってくれる,大事な存在として見ていたでしょうか。


 スポーツ・メディアでは,選手との間に大きな壁があったとの指摘もありました。コミュニケーション・スキルであったり,メンタル・マネージメントに関する能力が高くない,ということの証左なのかも知れません。ならば,その「苦手分野」をコーチに担ってもらうことだってできたはず。それさえもが機能しなかったとなれば,コーチとの間にも「壁」が存在したことになるでしょう。


 完全であろうとするがあまり,人間味が薄くなってしまった教師,という見方もできるでしょう。


 カウンター・フットボールではなく,モダンなフットボールを指向するという「戦術的な可能性」を断片的に表現しながら,「人間性」という部分で自ら障壁を作ってしまったがために,行き詰まってしまったのではないか。そんなことを,思ったりするのです。