重要なのは設計図。

ふと思うに。


 最も欠けているのは,森さんだったり祖母井さんのような目線を持ったひとではないか。


 クラブ・フロントがシッカリとした設計図を描き続けられる(あるいは,とあるタイミングで描いていた)ならば,リーディング・クラブとしての階段を駆け上がっていくかもしれないし,すでに駆け上がっていたかも知れません。


 リソースを確かに無駄遣いしている,ように見えますね。ただ,限られたりソースをどのようにして使っていくか,という前提に置き換えれば,「クラブ論」として位置付けることもできるでしょうか。


 エル・ゴラッソ紙(463号)に掲載されているコラムにちょっと目が止まった,というわけでして。今回は,そのコラムをもとに、ちょっとクラブ論的なエントリを(もうひとつのネタは,ちょっと後にさせていただきます。)。


 エル・ゴラッソ紙には,「東京書簡」という連載があって,通常ならばFC東京を追いかけているライターさんである後藤さんと,ヴェルディ番の海江田さんがパス・ワークを展開しているわけです。ただ463号では,西川さんがパスカットを仕掛けてきた(乱入してきた),と。


 そのきっかけは「中位力」という言葉。


 この中位力のもととなっている要素を,西川さんがコラムとしてまとめています。ごく大ざっぱに(営業妨害にならない程度に)まとめると,メディアが優しいことと,ライバル関係が成立していないことが中位から抜け出せない大きな要因ではないか,と書いておられるわけです。


 さて,頷ける部分も確かにありますね。


 ちょっと一般論的な言い方になってしまいますが。たとえば,新聞であれば記者さんがシッカリと練習から「観察」してくれていることがすべての出発点だと思うのです。監督が志向するフットボール・スタイルや戦術的なイメージ,各選手に関してはコンディションであったりリハビリからの回復状況など,把握できる要素は非常に多いと思います。この要素をもとにして,試合を見ればときに厳しく,ときに優しい目線になるのが自然だと思うのです。プロフェッショナルであるならば,結果が最も重要視されるのは当然としても,その結果をどのようにして導いているか,という部分も見ていく必要があるし,ゲームの中で意図するフットボールがどれだけ表現できていたか,という判断要素だってある。「らしさ」を失って敗戦を喫したのであれば,当然のように厳しい論調であるべきだし,不安要素を露呈しながら勝ち点を拾ったのであれば,その不安要素を指摘する必要もある。


 同じようなスタンスで,映像メディア(TV)だって番組を作成できるはずです。


 ただ,「外的な要因」だけで中位から脱することができる,とも思わないのも確かです。Jリーグ初期にあって,「お荷物」という(ありがたくもない)形容詞をいただいていた浦和が転換点を迎えることができたのは,明確に「基盤」からの再構築を意識したから,だと思うのです。揺らぎ続けていたファースト・チームの方針にハッキリとした基盤を与え,どのような指揮官を招聘しようとも「戻るべき場所」として位置付ける。そんな,遠回りにも感じられることに着手したからこそ,上昇曲線を描きはじめられたのだろう,と思うのです。


 そして,こういう意識はクラブ内部から出てこなければ意味がない。外からの目線が厳しいものだったとしても,内側にいるひとたちの意識がその厳しさに対して鈍感であれば,その厳しさが意味を持つとは思えないからです。外からの厳しさと,その厳しさを真正面から受け止める内側の意識が,ある程度同じ方向性を持っていなければならないはずです。加えて,内側にいるひとたちはクラブとして,どのような将来像を描いているか、問われるはずです。その将来像に近付くための第一歩として,短期的にはどのような指揮官を招聘し,どのような選手を補強,獲得していくかが問われ,中長期的にどのような選手を育成し,指揮官が描いたトップ・チーム像を熟成させていくか、が問われる。そして,現実の進行状況によって設計図は適宜変更されていく。そんな繰り返しによって,階段を上がっていくのだと思うのです。


 そんなプロセスを,シッカリと意識しているクラブ・フロントなのかどうか。


 外も大事ですが,同じように(と言いますか,それ以上に)内も大事,ということではないか,と思うのです。