対ベトナム戦(U−22・五輪最終予選)。

現実主義的な戦術を打ち破れない。


 アジアカップハノイ合宿,という言い方もあるような。)を戦っていたフル代表でも,直面した課題ではありました。ですが,実際には戦術的な基盤を構築することを最優先課題として戦い,現実的な戦術へのシフトを極力回避した,という見方も成立するような感じがします。同時に思うこととしては,戦術的な浸透度を引き上げるという目的とともに,スターター,あるいは戦術交代によって投入された選手が,“オン・ザ・ピッチ”で自律的に戦術を修正し,仕掛けを微調整できること,をもうひとつの目的としていたのかな,と思う部分もあります。


 ただ,確かに戦術交代で「戦術的なメッセージ」がピッチへと明確に伝わってはいなかったな,という印象は強いんですけどね。チームとして,さらにラッシュを掛けていくのか,それとも緩やかにスロー・ダウンさせていくのか,という部分でさえ,ちょっと不明確な部分があった。決して明確なギアチェンジのできるパッケージではなかったようには思うけれど,それでもベンチ・ワークによって「示唆」を与える程度はできただろうに,とは思うわけです。


 ・・・ちょっと古い話を持ち出しましたが。


 U−22は,このようなチーム・ビルディングを経てはいないな,という印象が強いわけです。ということで,ベトナム戦の話であります。


 基本的に,「真剣勝負」のゲームであるならば,「結果」を最優先項目にしたいところではあるのですが,「その先」を見据えたときにちょっと気になる要素がいささか多い。でありますれば,ちょっと基盤を考えてみようか,と。


 このチーム,“テスト”という部分では相当な時間を費やしてはいるはずです。相当数の選手が呼ばれてもいるし,実戦に投入されてもいる。また,チーム・コンセプトは基本的に,フル代表チームと共有されている,とは聞きます。大枠については,確かにそんな印象もある。


 あるのだけれど。チームとして「戻るべき場所」と言うか,「よって立つべき場所」があまりに不明確なままに推移してしまったように思えるのです。


 たとえば,であります。


 平山選手がゴールを奪取できなかった,ということが大きく扱われますが,むしろ問題は平山選手を核として「使い,使われる」という関係が構築できていないこと,にあるのではないか,と。ごく端的に言ってしまえば,平山選手が落としたボールを強引にでもかすめ取るようなタイプの選手がいればいいし,そんな意識付けを指揮官がすべきではないか,ということです。


 現実的な戦術に対して,ボールを積極的に動かすというスタイルをちょっとだけ,縦への鋭さを生かした方向性へと微調整するとして,ターゲット・マンとして平山選手は大きな意味を持つはずです。もちろん,相手守備ブロックからのマークは相当厳しいだろうことは容易に想像が付くところです。そのときに,「周囲」がどう動くか,という部分が局面を動かすためには大きな要素になるはずです。2トップならば,もうひとりのトップが適切な距離感を維持しながらボールをさらに呼び込むような動きを見せてもいいし,あるいは中盤から積極的に相手最終ラインの背後に生じるスペースを狙う姿勢を見せてもいい。いいはずなのだけれど,ボールが平山選手に収まってからの動きが,なかなか加速していかない。仕掛けという部分では初期段階であってもいいはずなのに,実際には仕掛けの最終段階に入ってしまったかのようにサポートが薄くなってしまう時間帯がある。


 指揮官が指向する,ボールを積極的に動かすフットボールという方向性は恐らく,(最大限好意的に解釈すれば)ひとつの最適解だとは思います。


 しかし,仕掛けの局面ではボールが動く前提となるはずの,オフ・ザ・ボールでの動きが不思議と抑えられてしまう。トップのタレントだけが問題なのではなく,攻撃ユニットとして,パッケージがシッカリと「使い,使われる」関係を構築するために,いまいちど戦術的なイメージを確認していく必要があるのではないか。この点,指揮官がどのような「動機付け」を攻撃面でしているのか,ちょっと興味のあるところです。どこか,U−22チームを見ていると,戦術的に持っている(と思われる)イメージはフル代表と共通しているところがあるのだろうけれど,その戦術イメージを現実とするための作業として「個」の才能をどう組み合わせるか,という部分ばかりに意識が振り向けられているのではないか,という感じが強い。「個」の持っているパフォーマンス,あるいはポテンシャルを“チーム”としてのパフォーマンスへと結び付けるための要素に対する優先度が相対的に下がってしまっていて,個の持っているパフォーマンスそのものに対する優先度が上がってしまっているように見える。先ほどのエントリで,パッケージのセッティングが定まらない,要素技術での最適性ばかりに意識が向けられてしまったレーシング・マシンという表現は,この部分にかかわることだったりするわけです。


 もっと,組織的な基盤に裏打ちされた,「機能美」を感じられるだけの能力(戦術理解度を含めて)をこのチームは持っていると思うだけに,いささかもったいない感じがします。