秩父宮と地域密着。

ラグビーフットボールという競技における聖地。


 秩父宮を位置付けるとすれば,こんな感じになるでしょうか。


 観客動員などを考えれば,国立霞ヶ丘という選択もあるのでしょうが,ラグビー日本代表のテスト・マッチであったりRWC予選,もちろんラグビー日本選手権決勝など,重要性を持ったゲームは当然,秩父宮で開催されるべきだろう,と思っています。


 しかし,リーグ戦に「秩父宮」という存在が必要なのだろうか,とちょっと思うのです。


 シーズンスケジュール発表会見に関するニュース・リリース(トップリーグ・オフィシャル)を読んでいて,そんなことを感じてしまったわけです。というわけで,今回は楕円球版クラブ論,という感じで書いていこうと思います。


 秩父宮を,“トゥウィッケナム”であったり“ランズダウン・ロード”のように位置付けてほしい,と言ってしまうのは,理想論だろうとは思います。観客収容数で考えれば,国立霞ヶ丘と比較するまでもありませんが,「稼働率」が低くなってしまえば,秩父宮の存在自体が揺らぐことにもなりかねない。ラグビー・フリークなひとたちにとって感じられる,秩父宮の重みが誰もに感じられるわけでもないのだから。
 しかし,選手権決勝でなければ立てないフィールド,であったり,代表として選出され,選手登録されなければ立てないフィールドであるならば,「聖地」である意味はより大きくなるはずだと思うのです。


 対して,リーグ戦です。


 まず,「スタジアムに足を運んでほしいのは誰なのか」という部分で,少なからず疑問を感じています。リーグ戦での集客を考えるときに,「もともとラグビーという競技を好きなひと」であったりを意識するだけではなく,「自分の住んでいる街にあるチームだからこそ,追い掛けてみたい」と思ってくれるひとをどれだけ引き寄せられるか,が重要なのだろうと思うのです。
 ワイルドナイツは,ラグビー界にあってフットボール的,と言いますか,イングランドのプロフェッショナルのような発想に行き着いたわけですが,本来クラブと地域とのあるべき姿ではないか,と思っています。ワイルドナイツが本気になって取り組みはじめたように,もともといるラグビー・ファンだけではなく,ラグビーのファンになってくれるひと,それもクラブがトレーニング・グラウンドを構える土地に住むひとたち,もうちょっと広く,本拠地周辺に住むひとたちを地道に掘り起こしていく必要があるのではないか。にもかかわらず,強豪という位置付けのクラブが,まだ自分たちの練習拠点のある街にシッカリとした目線を送ることなく,単純に「秩父宮で,金曜日の夜だから集客が望めるのではないか」というコメントをしてしまう。これでいいのかな,と思うのです。


 会社帰りのひとで,ラグビーが好きなひとは確かにいるかも知れません。


 しかしそれ以上に,「日頃お世話になっている会社のひとたち」に目線が向かってはいないか。休日にわざわざ足を運んでもらうより,次の日が休日,というタイミングならば気軽に足を運んでもらえるのではないか,と。この発想を全面的に否定するつもりはないけれど,ちょっと近視眼な見方かな,と思うわけです。フィナンシャルな部分で,多くを責任企業に依存している。当然,視線は責任企業サイドに向かわざるを得ない,かも知れません。ただ,いささか地域に対して「閉じられている」印象が強い。トップレベルのアスリートを多く擁するにもかかわらず,そのリソースを生かし切っているとは感じられない。実業団であっても,もっと地域に対して積極的にコミットしていくこと,そして地域に対して大きく開かれていることが求められるはずです。自分たちの本拠地とは直接関係のない,秩父宮で開催するメリットが,中長期的に見てあるのでしょうか。


 本来,スタジアムに足を運んでほしいひとというのは,クラブの「何か」に共感してくれるひとであって,それは企業ベースのクラブだろうと,同好会を起源に持つクラブだろうと,あるいは強固な会員組織を持つクラブであろうと変わるところはないはずです。その「何か」を,積極的に発信しているのでしょうか。


 この会見に出席したクラブは,ともに強豪です。


 しかし,常に強いままであり続けることは不可能に近い。フットボールで言えば,“グランデ・トリノ”であるとか,“グランデ・ミラン”などという形容詞を冠せられる時代を経験しているとしても,その形容詞が現在,あるいは将来にわたって意味を持つわけではない。そのときにどれだけのひとがクラブを支えてくれるか。中長期的に求められる要素とは,そんな時に「ともに闘ってくれる仲間」であるはずです。そんな仲間を作れる体制なのか。オープン化,という課題を持つラグビーフットボールにあって,親会社にだけ視線を送るスタンスが,果たして最適解なのか。ワイルドナイツに差を付けられてしまうことになるのではないか,と個人的には危惧しています。