使いたい音は。

たとえば,アドリブ・プレイをイメージしてみます。


 アドリブ,というと「自由奔放」という言葉が思い浮かぶかとは思いますが,実際にはそれほど自由なわけでもないのだそうです。考えてみれば当然で,演奏している楽曲には“キー・ノート”というものがあります。そのキー・ノートを外したアドリブだと,その部分だけが浮き上がってしまうことになってしまいます。キーノートはある意味,アドリブ・プレイをするプレイヤーに対する拘束条件ともなるわけです。


 さらに,使うべき音階を増やしていけば,アドリブという言葉は「即興のアレンジメント」という意味に限りなく近づいていきます。プロのジャズ・プレイヤーは,アドリブ・セッションで使える音階を増やしながら,互いのプレイを楽しんでいたとか聞いたことがあります。それゆえ,ジャズ・プレイヤーにはあらゆる引き出しが求められるのだそうです。どれだけ多様な音楽に接しているか,という部分が,アドリブに反映されるのだと。


 ちょっとフットボールに当てはめて考えると。


 確かに,いまの浦和には「即興性」の面白さは少ないな,とは感じます。ちょっと乱暴な言い方をすれば,アドリブに踏み込むことができずに,ただスコアに書いてある流れを追っている,という感じがします。ウッド・ベースもドラムスもリズムを刻んでいるのだけれど,まだそのリズムに意識を飛ばすだけの余裕がない,と言うか。


 ただ,アドリブに対応できないなりの理由もあるような感じもします。


 即興性を導き出すために使いたい音が,プレイヤーによってバラついているのではないか,と感じるのです。使いたい音が3つのプレイヤーがいる一方で,4つに増やしたいプレイヤーもいたり,逆に2つに抑えたいプレイヤーもいる。そのために,アドリブを繰り出したとして,受け止めてもらえるかどうか,というように「確信」が持てていない,ということではないか,と。


 日本勢、ACLで好調な序盤戦 - オシム・ジャパン 2010年への挑戦(NIKKEI NET)というコラムの中で,大住さんが端的に,「ボールなしの動き」をする選手がいないことを指摘していますが,その背景にはコンビネーションの基盤になるはずの「相手の動き方に対する確信」がまだ確立し切れていないような,そんな感じもするのです。


 3か4か,という数字の話ではなく。


 どう,ボールのないところで相手を抑え込み,どうボールを呼び込んでいくか,という部分は“チームで”相手を崩していくという意識を強めるためには,必要不可欠な要素です。アウトサイドの構成が変わったりしていることで,昨季構築したコンビネーションとは違う形が求められるし,昨季以上に選手の連動性が必要とされるフットボールを,オジェックさんは意識しているし,恐らく浦和が進化していくべき方向性を見ているのでしょう。


 とは言え,まだ熟成過程にあることは否定できません。大住さんが言うように,オフ・ザ・ボールでの動き方がスムーズになり,ボールがスペースへと動き出すようになると,浦和のフットボールは新たなステップへと動き出すのかな,と感じます。