闘うべき相手は。

ちょっと屋号な表現をしますと。


 “クオリファイ・スペシャル”なんて言い方をされるレーシング・マシンが,実際にあります。ダミー・グリッドのポジションを決める,公式予選では確かに速さを見せ付けるのだけれど,決勝になると精彩を欠いてしまう。つまり,表面的にはホメ言葉のようでいて,実際には皮肉の込められた表現でもあるわけです。同じレースでありながら,予選と決勝の性質が大きく違う,というのがこの前提にはあります。


 予選での絶対基準は「タイム」です。


 どれだけ,タイムを削れるのか。どれだけ,スムーズにレース・トラックを攻略できるのか,という部分が問われるわけです。同じレースにエントリしているレーシング・チームを直接の敵としているわけではなく,「時間」という要素が,闘うべき相手と考えていい。それだけに,予想外の負荷というものはかからない。


 対して,決勝レースでは絶対基準はあるようでいて,実際にはありません。


 端的に言えば,「誰よりも先に,フィニッシュ・ラインを通過する」ことが求められるわけです。極論すれば,2位に付けているレーシング・マシンとの時間差が,1/1000秒単位であろうと,先行してさえいればポディウムの中央へ立つことができる。このときの敵は明確です。「同じレース・トラックにいるレーシング・マシン,そのすべて」です。闘う姿勢を前面に押し出していかなければ,ポジションを引き上げる,あるいはポジションを守ることは難しい。そのためには,徹底的にマシンをいじめることになるわけです。予想外の負荷をかけることも当然のようにある。その負荷に耐えきれないと,決勝を勝ち抜くことは難しい。闘うべき相手は,数字ではなくて現実に存在するライバルなのです。


 さて,U−22代表ですが。


 テクニカル・スキルやタクティクス以前の問題として,フットボールは眼前の敵に対して100%のファイトを90分挑み続けられるか,という部分が求められると思うのですが,どこか「絶対基準」でもあるかのような戦い方をしているのが気になります。アウェイ・マッチにおいて,不安定な戦いぶりを見せてしまったことにしても,100%ファイトすることができないことに対する苛立ちと言うよりも,自分たちが本来持っているはずのパフォーマンス(テクニカル・スキル)を外的要因によって発揮しきれないことへの苛立ちのように見えるのです。
 端的に言ってしまえば,チームとしてのベクトルが明確性を欠くだけでなく,ひとりひとりの選手がゲームに臨むモチベーション,そのモチベーションがひとつの方向性へと束ねられていないような感じがします。


 結果として,闘うべき相手が現実に目の前にいるにもかかわらず,何か「ほかのもの」と闘っているかのような,そんな不思議な印象を受けてしまうように思うのです。


 極論してしまえば,ひとりひとりの動機付けがバラバラだろうと関係ない。ただ,自分の動機付けを完結するためには,チームが機能することが求められる。ならば,徹底的に要求をぶつけ合えばいいし,要求がぶつけられても当然,という意識を持つべきだろうと思う。プロフェッショナルならば,ごく当然のように表現すべきことを,ピッチ上で表現しているだろうか。
 ゲーム中のピッチに怒声が響いていたとしても,ハーフタイムのロッカールームに険悪な空気が流れたとしても,その根底にあるものが「チームを勝たせる(勝ち点を奪取する)」という点で集約されているのであれば,チームは健全に機能していると評価して良い。チームは“倶楽部”などではなく,闘うためのタスク・フォースであるという前提を改めて確認してほしいと思う。
 加えて言えば,徹底的に要求を突き付けていける雰囲気,空気をコーチング・スタッフが作り出せているだろうか。戦術面だけで,彼らの能力が試されているわけではない。テクニカル・スキルに秀でた選手をセレクトしているのならば,そんな選手をどう,「闘う集団」へと引き上げていくのか,という部分でのメンタル・マネージメントも同様に大きな要素として指摘されるべきだろう。単純に,自らが描く戦術的なピクチャーに適合性の高い選手をセレクトするだけでは,チーム構築を終えたことになどならない。


 彼らの能力を最大限に引き出すために,どう彼らの“ハート”に働きかけていくか。フィンガースピッツェ・ゲヒュールという部分でも,もっと「本格感」を見せてほしいと思う。


 「相手に勝つことこそがすべて」という,フットボールの本質に立ち戻ってみる。チーム再構築,というようなことがスポーツ・メディアでも扱われていますが,この部分を意識した再構築であってほしい,と思うのであります。