転がっている「きっかけ」。

リーグ戦はクラブの総合力を問い,カップ戦はクラブが持っている加速能力を問う。


 間違いなく,そういう側面はあるでしょう。


 MDP優勝特別号に,コラムを寄稿された近藤篤さんが書いているように,「他の誰よりも自分の求めるものに対してどん欲に労力と金を費やし」,「優勝するための準備と努力」を積み重ねていかない限りは,マイスター・シャーレを高く掲げるということは不可能だろうと思うのです。保有戦力だけでもなければ,基本的な戦術だけでもない。クラブとしてチームをどのようにサポート,バックアップし続けることができるのか。以前も書きましたが,「戦略」がシッカリと基盤になければ,優勝という高みを陥れることは難しいように思います。


 では,カップ戦において,「総合力」という要素はまったく考慮しなくとも良いのでしょうか。


 そうではないはずです。12月のはじめ,「天皇杯を考えてみる。」というエントリを立てて,元日に決勝を開催する意味を無理に重視するよりも,ともすれば落ちかかっている天皇杯の権威を再び引き上げ,プロフェッショナルが参戦するにあたってシッカリと意味づけができるスケジュールへと変更すべき時期が来ているのではないか,というニュアンスのことを書いています。この考え方に,いまも変わるところはないのですが,エル・ゴラッソ紙1面に書かれた文章を見て,プロフェッショナルが参戦しているからこそ,の元日決勝の意味も実際には大きいと考えても良いような気がします。


 ちょっと引用してみますと。

 カップ戦を本気で戦えないようなチームは一時的にリーグの順位を上げても、しょせんは中位どまり、優勝には絡んでこられない、ということも真実だろう。…1シーズン制の長丁場を、力を維持し勝ち続けるには、物量とマインド、勝つことへの執着心、上を常に目指すチームの遺伝子、勝者のメンタリティーは不可欠。カップ戦で緩んでいるようでは、もはやリーグ戦を戦い抜く権利はない(出典は,“エル・ゴラッソ”紙(2006年12月22・23日号)1面)。


というものです。もちろん,フットボール専門紙として天皇杯を盛り上げていかなければならない,という側面がありますから,一定程度割り引いて読んでいく必要もあるでしょう。ですが,単純に「天皇杯を盛り上げようとするためだけの文章」と考えるのも違うような感じです。


 プロフェッショナルであるとかないとか,それ以前の問題として,「勝負」にかかわるひとならば,目の前にあるタイトルを獲りに行くというのはある種の「本能」のようなものではないでしょうか。逆に言えば,現状に満足するようなことがあっては,プロフェッショナル,そして勝負師として何かを失うことになるはずです。


 何かを成し遂げた直後というのは,「達成感」が支配しているからモチベーションが上がっていかない。ある意味,当然のことでしょう。だけど,ちょっと考え方を変えてみます。


 天皇杯を制し,“DOUBLE”という称号を手にするチャンスを持っているのは,ヤマザキナビスコカップを制し,“CUP DOUBLE”という可能性を持っていた千葉が敗退しているいま,浦和しかありません。また,浦和は“カップ・ホルダー”として無様な戦いをするわけにはいかない。加えて言えば,いままでリザーブに入っていた選手がピッチで存分に自己表現するチャンスを得られる状況にある。


 カップ戦を駆け抜けるためのきっかけは,それこそあらゆるところに転がっています。いまのチームが持っているポテンシャルを思えば,獲得しているシルヴァーウェアが多すぎるなんていうことは決してない。確かに,ハードなスケジュールを乗り切らねばならないけれど,「敗北は悪」と言い切った指揮官に伝統あるカップを再び掲げさせるためにも,全力で奪いに行ってほしい。そう思うのであります。