La finale realiste (Italie v. France).
どんなレベルのゲームであっても,決勝戦というのは「勝負」という側面だけがクローズアップされ,フットボールそのものの魅力という部分からは離れてしまう部分があります。
「勝ちたい」という意識よりも,「負けたくない」という意識が上回るからでしょうか。
局面での勝負は激しさを持っているものの,全体としての印象は慎重さを決して失わない,バランス重視の,結果という現実をしっかりと見据えたゲームになるな,という感じがします。ファースト・ラウンドでのゲームの方が概してそのチームの個性をハッキリと表しているのは,決して偶然ではないかも知れません。そして,オリンピアシュタディオンでのラスト・ゲームも「途中からは」同じ文脈で解釈できるような感じがしました。
というのも,立ち上がりの早い時間帯でスコアが動き,その動きに連動するように攻撃的な部分が際立ってくるのではないか,とちょっと感じたからであります。
フランスの先制点の場面にせよ,イタリアの同点劇にせよ,組織的な仕掛けから相手守備ブロックに綻びを生じさせる,という形ではなかったけれど,得点という要素が組織的な攻撃という部分に何らかの活性効果を与えてくれるのではないか,という期待感を持っていたわけです。
しかし,実際には攻撃的な要素よりも守備的な要素が目立つ,ある意味では典型的なカップ戦(決勝戦)のゲームになっていったように感じるのです。そんな決勝戦において,「らしさ」をより強く押し出すことに成功したのはアズーリだったような感じがします。
とは言え,伝統的守備戦術だけに頼っているわけではない。
“フィニッシャー”が今大会ではちょっとミッシング・ピースになりかかっていたような感じもあるけれど,決して単純な“one-nil”のメンタリティで勝負をしているわけではない,ということは感じられた。ロースコアのゲームではあったけれど,局面ベースで見るならば「レベルの高さ」を感じられるゲームではなかったか,と。
にしても。100%の状態で120分プラスを戦い抜けなかったのは,残念と言う以外にありませんね。ちょっとそのことにも。
彼がビアンコ・ネロのユニフォームを着ていた頃にどこかで見たこと,そのリプレイをまさかオリンピアシュタディオンで見ることになるとは思いませんでした。
“maestro”と評されるほどにアーティスティックなプレーをピッチ上に表現してくれるタレントが,稀に見せる狂気の側面,とでも言いましょうか。不思議なことに冷静さを突然失い,理解できないような行為に及んでしまう。そんなもうひとつの側面が,決勝戦という重要な舞台で再び表面へと浮かび上がってしまう。しかも,彼自身が「キャリアの締めくくり」と位置付けていたはずの舞台で。
ワールドカップという舞台には不思議と縁がなかったけれど,ひとの記憶に残るフットボーラーも,舞台こそプレミアシップ,観客に対してと状況は違えど,クールを失うことで大きな代償を払ったように記憶していますが,彼もどこかで似たような気質を持っているような感じがします。同じく天才であるがゆえ,なのでしょうか。
それは,ともかくとして。
彼がセントオフとなることで,チームを貫いていていいはずの支柱が外れたような感じがしました。勝負がPK(ペナルティ・シュートアウト)に持ち込まれると,技術的な部分やフィジカルなどよりも,精神的な部分が大きな要素を占めるように思います。ピッチに立っている選手たちを束ねるべき存在が,ピッチから去ってしまうことで,チームが本来持っていていいはずのパフォーマンスが発揮できずに終わってしまったのではないか。そんな「もったいなさ」もどこかに感じるゲームでした。
勝負に勝つためには,現実主義的な部分も確かに重要なのだけれど,ワールドカップ決勝戦は「世界最高峰レベルのフットボールをプロモートするための貴重な機会」でもあるはず。そんな,ある部分ではフットボールの理想型を見せてくれるようなゲームであってほしいとも思っていただけに,ちょっと残念なような,もったいないような感じがしました。