チャプターをあらためて。

どこか,あまりにも大きな引き波に揺さぶられているような感じがしますが。



 揺さぶられながら,それだけのキー・パーソンが去ったことの重さを感じもします。ですが同時に思うのは,1998年ワールドカップ・フランス大会にはじまるひとつのチャプターが8年間という時を経て,結語を迎えたということ。

 そして,結語は「いつかは来ること」でもあると思っています。その時期が早いのか,それとも遅いのかという違いはあるとしても。



 ある種の喪失感を感じるひともいるかも知れません。

 「終わり」という部分を強く意識してしまうのも,仕方のないことだと思います。

 ですが,終わりは必ず,何らかのはじまりを伴うはずだ,と思っています。



 喪失感があることを否定することなく,しかし喪失感を勇気を持って乗り越えていかなければ,日本のフットボールに進化はないでしょう。彼が“上手に伝えられなかった”と表現したことを,代表に選出されたすべての選手が理解すること,そして共通理解へと高めていくことが,ワールドカップという強烈なプレッシャーが掛かる国際舞台で100%のパフォーマンスを引き出すためには求められるはずです。彼だけが突出した,あるいは孤高の存在として見られたというのは,一方ではコミュニケーション能力が不足していたという部分に行き着くのかも知れませんが,もうひとつの見方で言えば,それだけプロフェッショナルとして自己に課していた「基準」が高かったのだろうとも感じるのです。その基準に近付いていくこと,より厳しく言えば,中田が指針として据えていただろう基準をリファレンスとして,その基準を超えることを常に求めていくというか。そういう厳しさを意識するところから,本大会での勝負権を掴めるのではないか,とも感じます。



 チャプターをあらためる,ということはほかでもなく,過去に対して敬意を示しながら,その存在を超えていくという意思表示をしていくこと,と個人的には思っています。

 新たな章がどういうものになっていくのか。そのことをしっかりと意識しておきたいと思います。