中田英寿選手引退に思うこと。

正直,どう受け止めて良いのか分からずにいる。


 ただ,いまにして思うことは“微妙なズレ”を抱えながらプレーしてきていたのではないか,ということ。そのきっかけを作ってしまったのは,“フットボール・ビジネス”という冷徹な世界ではなかったか。


 実際にピッチ上に強烈なパフォーマンスを投影し,その持てるポテンシャルが相当な高みにあるだろうことを見る者に意識させた平塚時代からペルージャ時代には,すべての歯車がしっかりとかみ合い,どこまでの飛躍が期待できるのか想像もできなかったように思う。
 それは取りも直さず,カルチョメルカートにおける彼自身の「商品価値」が飛躍的に上昇したことも同時に意味する。ただ,そのことが彼のフィーリングに微妙なズレを生じさせるきっかけになってしまったのではないか。


 とは言え,ワールドカップを目前とした代表合宿からファースト・ラウンドでのパフォーマンスには,持てるポテンシャルに差している翳りなど感じることはできなかった。むしろ,どういう形で自らのキャリアを再び切り開いていくのだろうか,そしてどういう“インディアン・サマー”を迎えながらキャリアを締め括っていくのか。持てるポテンシャルを100%解き放つに足るフィジカルを失ったとしても,彼が持っているインテリジェンス,そしてこれからも蓄積されるだろう経験によって,新たな魅力をピッチ上に表現してくれるかも知れない。


 勝手にそんなことを想像していたためか,想定外の事態に戸惑っていると言っていい。


 いずれにせよ,彼の判断はどうあろうと尊重されるべきであり,引き際を決めるのは彼自身以外にいない。最後まで「らしさ」を見せ続けたキャリアだったな,と感じる。


 個人的には,ポリティクスなどよりも,フットボール・ビジネスの方がフットボールに対してはデメリットが大きいと思っています。ともすれば,選手個人のパフォーマンスという本質が忘れられ,「商品価値」という,正体不明な定義によってフットボーラーが取引される,という側面は否定できないところがありますから。


 フットボーラーにとっては,プロフェッショナルとして決して長くはないキャリアをどう設計するのか,という観点から見れば,一概にフットボール・ビジネス全体を否定するわけにはいかないだろうと理解してはいます。


 ですが,一方でビジネスによって才能を空費させてしまうこともあるように感じます。ローマからフィオレンティーナ,そしてボルトン・ワンダラーズにおける彼の立場は,フットボーラーとしての本来価値以外の何物かによって決まってしまっていたようにも思えるのです。この期間は,彼が100%のパフォーマンスをピッチに表現するために必要としていただろう,繊細なタッチを奪うには十分すぎる時間だったのかも知れない,と感じるわけです。


 そんな彼が,フットボールに対する想いを荒々しいがまでに素直にぶつけたのが,ドイツでのファースト・ラウンドだったのだろうと思います。最後にワールドカップを意識したのは,“ビジネス”を意識することなく真正面からフットボールを表現することができるから,だったのかも知れません。


 そう考えると,フットボーラーのキャリアの締めくくり方としては相応しいのかも知れない,と思いもします。残念ではあるのだけれど。