Like an experienced conductor (Portugal v. Pays-Bas).

あまり,クラシックが詳しいわけではないのですけど。


 皮膚感覚で「このひとは良い指揮者だな」と感じられるひとは概ね似たような雰囲気を持っています。


 間違いなく,指揮者のひとは楽曲に対するイメージをしっかりと持っているのでしょうけれど,本番のステージでそんなイメージを傲慢に押し出しているような感じはしません。
 むしろ,ひとりひとりの演奏者に気持ちよく演奏してもらうことを最優先に考えているような感じがします。重要な場面では,緊張感がしっかりと張り詰め,演奏者の視線は指揮者へと注がれるけれど,そんなポイントは決して多くはない。何と言いますか,自然に演奏者のひとたちが自分が持っているイメージに近付いてくれるように道筋を見せているだけ,というような感じがするのです。手綱を緩めたり,逆に厳しく引き絞ったりというメリハリがすごくハッキリしているように感じられるのです。


 同じフィールドで語れるわけではないけれど,レフェリーの役割というのは,本番の舞台で演奏者のパフォーマンスを引き出す指揮者のようなものでは?と思うわけです。リズムが崩れそうな局面で,目立たないようにコントロールしていくとか。


 ポルトガルとオランダ。


 ともに優勝を射程に収めながらセカンド・ラウンドを戦っていくことを強く意識しているチームですし,ユーロなどを考えればスポーツ・メディアが書いているように「因縁の対決」という部分も確かにある。ヒートする要素には事欠かないわけです。
 ですから,実際に戦う前からともすれば「勝負」の側面が過度に強調されてしまうのではないか,という懸念はありました。実際に起きたことは,その懸念を大きく超えるものでもありましたが。


 とまあ,アウトサイダーでも過熱する可能性を感じていたにもかかわらず,今回のレフェリーはゲームが熱くなりすぎないようにコントロールするのではなく,むしろ熱さに拍車をかけるかのようなジャッジングをしてしまっていたように見えました。もったいない。


 指揮者が自分のイメージだけを押し出し,演奏者が無理に押さえ付けられているような感じのする演奏からは,決してひとの心を揺さぶるような感じを受けることができないのと同じように,カードという最終的な手段だけを形式的に用いることで必死にゲームをコントロールしようとしても,FIFAが掲げる“FAIR PLAY”というものが達成され,見ているひとに何かを残すようなゲームになるとは思えない。
 ひとがジャッジするのだから,パーフェクトなどということは決してあり得ないけれど,ひとがコントロールするからこそ,ゲームが巧く流れていく,ということもあるはずです。何のための,誰のためのジャッジングであるべきか,という素朴な原点からレフェリングを考えてみても良いのでは?と思ったりします。