名将の訃報に触れて。

私の住んでいたエリアとはちょうど反対側。


 こんなことを言っては申し訳なく思うけれど,ディストリクト・ライン,あるいは気分次第でハンマースミス・アンド・シティ・ラインを使って東に向かい,アップトンパーク駅を降りてもプレミアシップに名を連ねるフットボール・クラブの本拠地があるとはにわかには信じられないような雰囲気がありました。


 「間違いないはずなんだけど・・・」と思いながら駅前の通りを歩いていくと,左側に大きな屋根を持った構造物(少なくとも競技場には見えない)が見えてきました。「鉄工所のようだな」と思ったその構造物こそが,ウェストハム・ユナイテッドの本拠地だったのでした。


 私が住んでいたときは,ロンドンで最もパワフルなクラブはハイブリーに本拠地を置くクラブでしたし,オールド・トラフォードをホーム・スタジアムとするクラブとの激しい2強対決が繰り返されていた時期です。それだけに,ウェストハム・ユナイテッド(ハンマーズ)に対する印象は「優勝争いをするには難しいけれど,だからと言って降格争いに巻き込まれるようなクラブではない」という,典型的な中堅クラブに対するものでした。


 しかし,先ごろ亡くなられたロン・グリーンウッドさん(ウェストハム・ユナイテッド・オフィシャル)の経歴を振り返ると,このクラブに対する見方は大きく違っていきます。


 グリーンウッドさんがウェストハム・ユナイテッドの監督に就任するのは1961年。思えば,ウェストハム・ユナイテッドが輝きを放っていた時期と,グリーンウッド監督の就任時期とは見事に一致しているのです。1964年シーズンにはFAカップを制覇し,翌65年シーズンにはウェンブリーで行われたカップ・ウィナーズ・カップ決勝を制し,クラブに初の欧州タイトルをもたらす。その後,1975年シーズンには再びFAカップを掲げ,カップ・ウィナーズ・カップ出場権を獲得する。1976年シーズンは65年シーズン同様順調にカップ・ウィナーズ・カップを勝ち上がるが,決勝においてアンデルレヒトに敗れ,準優勝に終わる。


 この間に1966年ワールドカップがあるわけですが,そのときの中心選手であるジェフ・ハースト,ボビー・ムーアやマーティン・ピータースはハンマーズに在籍していたのです。当時のハンマーズが1966年ワールドカップを支える重要な役割を果たした,という見方もできるでしょう。


 グリーンウッドさんのイングランド代表監督としてのキャリアが始まるのは,1977年からであります。彼はイングランドを1982年本大会(スペイン)に導き,第1ラウンドを首位で突破します。しかし,第2ラウンド(3チームで行われる第1ラウンド同様の総当たり戦)で勝利を挙げることができず,敗退を余儀なくされます。


 ・・・拓海さんのエッセイ(サッカークリック・アーカイブス)を読み返してみると,グリーンウッドさんは学究肌のタイプで,彼に率いられたハンマーズは「ウェストハム・アカデミー」と称えられていた,というエピソードが紹介されています。「名将」と言うと,マット・バスビービル・シャンクリー,あるいはボブ・ペイズリーと“マージーサイド”に偏って見てしまっているところがありましたが,ロンドン・エリアにだって「名将」はいる。至極当然のことなのですが,そんなことをあらためて思い返す機会になったな,と感じています。