OPEN TO THE PUBLIC.

たまには,フットボール抜きの話をしてみましょうか。


 タイトルに掲げたフレーズがちょっとした問題になった会社があります。


 当初はかなり慎重だったのですが,第三者から構成される諮問機関(のようなもの)は積極的であるべき,という考え方で,ちょっとぶつかっていたようです。・・・要するに,「一般公開をするべきか否か」ということですが。


 個人的なことを言えば,一般のひとたち以上に破片を目に焼き付けておかねばならないひとはいるはずだ,と思っています。ちょっと厳しい見方になってしまいますが,整備スタッフや修理を担当したボーイングのひとたち,そしてそのひとたちの後輩にあたり,現在整備や飛行機製造,修理の最前線に立っているひとたちこそが,目に焼き付けておくべきひとたちかな,と思うのです。


 ・・・とまあ,ここまで会社を特定せずに書いてきましたが,恐らくお分かりでしょう。そう,昨年20年目を迎えたあの事故に関わる話であります。この事故がどのようなものだったのか,TBSに在籍しておられる松原さんは,「ほぼ日」のエッセイのなかで書かれていますし,横山さんは「クライマーズ・ハイ」という著書でこの事故に関わったひとたちのことを,フィクションという姿を使って書いておられます。


 「安全」というものは,与えられているものであるとか,ただそこにあるものではない。恐らく,必死になって作り上げ,その作り上げたものを維持し続ける努力がなければ,どこかに行ってしまうようなものを「安全」と呼ぶのではないかな,と思います。クルマだってバイクだって,あるいはボートだって同じです。部品単価がおいくらのもの(決して高価な部品ではなくて,ごく安価な部品)が壊れたがために,致命的な事態に陥る,ということは充分にあり得ます。そして,未然にそんな状況を予防するための努力が整備であったり修理であったりするはずでして。


 逆に見れば,ヒコーキだとフライト・アテンダントとかパイロットなど「表」にいるひとたちの活躍はすごく見やすいけれど,彼ら(彼女たち)の仕事場を安全なものとしてくれているのは整備部門でオイルにまみれているテクニカル・スタッフの貢献があればこそ,だと思っています。地上職,と呼ばれるひとたちの中でももっと評価されて良いひとたちだろう,と。


 彼らのプライドに訴えかけるものが,あの破片たちにはあるのではないか,と思うのです。


 その点,こちらの記事(サンケイ・ウェブ)にあるように,安全啓発センターが羽田の整備地区に設置されるというのは非常に理に適ったものではないか,と思っています。


 一般のひとにあっては,失われた命に思いを馳せる場,そして安全というものが多くのひとたちの努力によってしっかりとつなぎ止めておけるもの,ということを確認する場となり,整備関係のひとにあっては自分たちの仕事の重要さを確認する場となってくれること。そして,フライト・クルーにあっては自己の犠牲となった同じクルーの仕事ぶりを思うことで自分の仕事にプライドを持つ場として機能してくれれば良いな,と思ったりするのです。