高校選手権、新章へ。

高校サッカーの話ですが,ゲーム以外のことを書こうかな,と。


 「歴史が書き換えられた」と言うよりも,例えば歴史が決して完結しない一冊の本ならば,新たな章に変わったな,という感じがするのです。


 高校サッカー選手権がある種の「頂」だった頃には,カップ戦に特化した戦術を駆使するというのも解法のひとつだっただろうと思います。しかし,プロフェッショナル・フットボールの世界が開かれてからは,頂であったものがある種の“チェックポイント”として位置付けられるようになった。そして,言わば完成形の前段階である“プロトタイプ”の世代が集う大会なのだから,その持てる才能を解き放つためのいろいろな育成アプローチがあって当然,という空気が段階的であるにせよ拡がっていくはず。そういう変化を明確に示したのが,国立霞ヶ丘でのゲームだったのかな,と思います。


 結果だけを見れば,野洲のアプローチが正解を引き出したようにも見えます。


 延長戦,決勝点を奪取したプレーは,間違いなく野洲が追い求めてきただろうフットボールのスタイルを明確に示すものであり,高校レベルのフットボールとプロフェッショナル・レベルのフットボールとがしっかりとひとつの線で結ばれていることを示すものだったのではないか,と感じます。
 選手個人のクリエイティビティやイマジネーションを徹底的に活用し,高い個人能力を集積することでチームとしての強さを構成していく。今日のゲームでは守備面でも高い能力を示していましたが,やはり攻撃面で彼らのスタイルははっきりと表現されるように感じます。


 だからと言って,鹿児島実のアプローチを「不正解」とすることはできないように思います。


 選手が持っている“ポテンシャル”にも多様な側面があり,どの側面を重要視しているのか,という視点の差を示しているに過ぎない,と思うからです。


 スキル(クリエイティビティ)・オリエンテッドなチーム構築アプローチが正解か,あるいはフィジカル(メンタル)・オリエンテッドなチーム構築アプローチが適合的なのか,という議論は「結果」だけを意識したとしてもあまり意味を持たないように思うのです。その先にさらなる育成・強化環境として機能する「大学」を見据えるか,それとも自分たちの立ち位置をフットボール・クラブの下部組織のように「育成」同様に「強化」という側面を重視するのか,という根幹の考え方の違いによって,大きくスタイルが変わっていくに違いない,と思うからです。そういう視点から見れば,章立てが変わるのはある意味当然のことではないか,と思うのです。


 野洲が,新風を高校サッカーに吹き込んだ。


 それは,高校選手権がひとつの頂点であることから解放され,世界へつながる道のチェックポイントとして新たな役割を持ちつつある,その合図なのではないか。そういう部分では,歴史が塗り変わったのではなく,新たなフェイズに入ったのだ,と思います。