コラムと想い。

メディアの皆さんというものに対して,ある種の固定観念があったかも知れません。


 「客観的事実」だけを追い求め,ひとが「真実」と呼ぶものの裏にある,いろいろな想いにまで触れてくれるひとというのは少ないのではないかな,と。


 でも,考えてみれば大いなる誤解だったな,といまは感じます。


 人間であれば,ポジティブな反応であれネガティブな反応であれ,そして程度の差はあるにせよ,取材対象に対する何らかの心の揺らぎはあると思います。どんなに客観的に対象を見つめようとしても,目にしたものを言葉に変換するときに自分の気持ちというものがどこかに投影されるのではないか,と考えるのです。はっきり言えば,強く取材対象に対して共感するなどのことがあれば,そのひとの想いは文章のどこかに表われるはずだ,と。
 そして,記事であっても心模様が何となく理解できる文章を書くひとが実際にコラムを書けば,取材対象に本当に共感してくれていたことがはっきりと分かるに違いない。


 そして,そんな考え方は「感動させる記事は、自分の感動から。サポーター取材のジレンマ」(実は、好きなんです。レッズ)とタイトルの掲げられたコラムによって見事に裏付けられたわけです。


 考え方によっては,「中立性」がない,という見方になるのかも知れません。


 確かに,マッチ・リポートなどではしっかりと時系列的に客観的な事実を追った描写が求められるでしょう。あまりどちらか一方に偏った書き方はバランスを失するという批判にさらされるだろう,とも感じます。
 ただ,スポーツ・メディアではよく目にするコラム的な記事にまで客観性が必要か,となれば話は違う。「心揺さぶられたこと」を否定してまで「客観性」を維持する必要もないと思うし,自分の想いを乗せた記事を書いてもいいのではないか,と思います。自分の感じたこと,想いに正直に書くことで,読んでいるひとたちにまでその想いが伝わっていくのだろうとも感じるのです。その意味で,

 「感動できない記者に感動できる記事は書けない」


という言葉には,永井さん自身の矜持を強く感じましたし,個人的には強く共感するところがあります。


 そんな永井さんの「赤い情熱がつなぐ夢」(記者コラム「見た 聞いた 思った」)というコラムにも,過去永井さんが浦和担当だった頃の記事と同じ印象を持ちますし,目線の暖かさを感じます。こういうひとが担当だったことに対して,誰に感謝すべきか分からないけど感謝したいな,と思うのです。