「優勝に相応しい」ってどういうこと?

恐らくお読みになった方も多いだろう,“エル・ゴラッソ”紙に寄稿された後藤さんのコラム。


 私にとってはかなり違和感があります。そこで,今回は後藤さんのコラムを完全に「反面教師」扱いして書き進めることにします。


 まず,根源的なところから。「優勝」って何でしょう。


 他のクラブより1ポイントでも多くの勝ち点を積み上げたクラブが浴する栄誉であって,それ以上でもなければ以下でもないはずです。


 にもかかわらず,後藤さんは得失点差に不満があると主張される。確かに,理想論だと後藤さん自身も断ってはおられるものの,あまりにゼータクなことを言っているな,と思います。モータースポーツや競泳,トラック競技などでは“タイム”が絶対基準として勝者と敗者を厳密に分けています。それ以外の要素は入ってこない。その役割を持ったインデックスが「勝ち点」であり,勝ち点が単純に他のクラブを上回ればそれで事足りるはずです。得失点差は勝ち点が並んだときの“セカンダリーな基準”でしかないはず。リーグ戦の原点と言ってもいいことをちょっと軽く見てはいませんか,と思うのです。


 次に。「完全なクラブ」が優勝するのでしょうか。


 優勝に相応しいクラブってあるのか,という命題に置き換えても良いかも知れません。


 まず「完全なクラブ」なんてあり得ないし,優勝に相応しいクラブという見方自体にちょっと無理がある,と個人的には思います。チームにも間違いなくコンディションの波が存在し,悪いリズムから抜け出すことができなければ予想外の敗戦を喫することも充分にあり得ます。また,チームの相性,実力差とは違う部分が結果に関わる,ということも確かにあります。そんなゲームのアヤを最小限に止めることはできたとしても,ゼロにすることなど不可能だと思うのです。「完全性」はこの点から否定できるように思うのです。


 また,ちょっと話はズレますが,欧州の傾向を強く意識し過ぎているのか,強力なクラブが表れないことも群雄割拠となったリーグ戦に対する不満の一端かも知れない,と感じます。


 でも,よく考えてみてほしいわけです。


 15〜20年前,いまほどTV放映権が高額ではなく,ビジネス・オリエンティッドなクラブ運営がなされていなかった時代のことを,です。突き抜けて強かったクラブはあまり存在していないはずです。確かに,イングランドで言えば80年代を代表するクラブとしてリヴァプール,90年代を代表するクラブとしてマンチェスター・ユナイテッドを挙げることができますが,それは「財政規模」だけを背景としたものではなく,強固なアカデミー(下部組織)をバックボーンとした強さだったはずです。正攻法で強くなってきている。ある意味,豊富な資金を背景として“カルチョメルカート”を縦横に駆使する現代の欧州フットボール・シーンが「特殊な例」だと言えるのではないでしょうか。


 リーグ戦で優勝を遂げる,ということは不完全さを補って余りあるストロング・ポイントをシーズンにどれだけ多く見せることができたのか,ということを意味するように感じます。どう失敗を補ってきたか,という見方をしても良いのではないかな,と。落としてはいけない重要性を持ったゲームでは,大きな失敗を犯すことなくシーズンを乗り切ったからこそ,優勝というご褒美があった。勝ち点以外のインデックスが悪かったからと言って,安易に優勝の価値を貶めていいものではない。


 今回は後藤さんのコラムを素材にしましたが,同様の論旨を持った文章をほかでも見ています。確かに課題になることはあるかも知れないけれど,それはクラブ論として稿を改めるべきことであり,優勝の価値自体と結び付けて論じるべき性質のものではない。少なくとも,私はそう思います。