レフェリングについて。

確認するまでもなく,最終的にゲームをコントロールするのはレフェリーであります。


 ありますが,ゲームをコントロールするために,常に「権威」を振りかざす必要は決してない,と思っています。むしろ,彼らの存在がピッチ上で目立たないことが,本当の意味でゲームをコントロールするためには重要なのではないかな,と感じています。


 「ゲームをコントロールする」ことは,カードを提示することだけで可能になるわけではない,と考えているのです。


 ゲームがヒートアップする可能性が高ければ,不要な反則が増えてくることを未然に防ぐべく,選手たちとコミュニケーションを密接に図る必要性もある,と感じます。ラグビーフットボールの世界では,レフェリーが両チームのキャプテンを呼び,ゲームにおける確認事項(判定基準など)を徹底する場面に出会います。フィジカル・コンタクトが比較にならないほど激しいラグビーフットボールにあっては,選手心理を巧みにコントロールすることができなければ,たとえ反則を犯したプレイヤーを“シンビン(時限的な退場処分)”にしたとしても,際限なくゲームが荒れていくことにもなりかねない。そんな事態を事前に回避すべく,機を捉えてレフェリーは巧みに心理的なコントロールを図っていくわけです。


 ボール・デッドになる時間がフットボールに比べて多く,リスタートまでに両チームと十分なコミュニケーションをはかれる時間的余裕があることなど,競技の性質自体が大きく異なるだけに,単純な比較はもちろんできません。


 とは言いながら,ラグビーフットボールのゲームを裁くレフェリーと同じように,少なくとも選手心理に対する理解がなければ,そして,ゲームの流れを的確に読む洞察力,判断力がなければ,決して主審と選手との間に信頼関係を作り上げることはできないように思うのです。


 基準に心情を込めることなどできない。その必要などない。
 しかし,基準を実際のプレーに当てはめる判定には,判断する人間の心情を込めることはできるはず。


 そういう部分を,SRに代表されるレフェリー諸氏には望みたいのです。


 一方で思うこととしては。


 チームがレフェリングに関して必要以上にナーバスになっているのではないか,と思うときがあります。
 もともと不完全である人間が,瞬時に判断を下さねばならないのだから,100%なレフェリングは恐らくあり得ません。
 時に承服しかねる判定を受けることもあるに違いない,とも思っています。いますが,ミス・ジャッジが原因でリズムを崩してしまっては相手を必要以上に楽にするだけでありましょう。積極的に崩しにかからなくとも,勝手にチームが崩れていってしまうのだから。
 戦うべき相手は,反対側にエンドを取るチーム以外には存在しないはずです。にもかかわらず,レフェリーまでを不必要に敵に回す必要などない。ましてや,あまりにジャッジに対してナーバスになることでチームがリズムを崩してしまえば,そのリズムを取り戻すために「自分自身」とも戦わなくてはならないことになる。


 8月最終週(9月第1週)に行なわれたカップ戦準決勝第1戦,リーグ戦第22節という2つのゲームから思うこととしては,当然のことではあるのですが,「レフェリングに翻弄されることなく,自分たちのリズムを維持すること」がゲームを安定させる要素でもある,ということがあるように感じます。終盤戦に差し掛かり,厳しさを増していくリーグ戦にあって,貴重な(しかし,できることならば二度と繰り返して欲しくない)レッスンになったのではないか,と思っています。