エッシャーと日本橋。

2日ほど,お休みをいただきました。で,今回はフットボール以外のネタをば。


 人間の視覚を巧みに利用した「だまし絵」で有名なマウリッツ・エッシャー


 エッシャーさん自身は,数学的な才能には恵まれてはいなかったと言っていたそうですが,緻密な計算なしにはあのような不思議な構図は生まれないはずです。


 でも,エッシャーさんが言う通り,数学的な才能を背景とせず,だまし絵を描いていたとしたら,経験科学的にその数学的な構図は導き出されたのだろうと思います。恐らく,「人間の視覚とは,実際にはかなり不確かなものだ」,ということが経験科学から導かれた法則であり,この法則を実物の絵で示してくれたことが,彼の最大の功績なのかな,と思うのです。で,街並みにも「視覚的効果」は充分にあるな,と。


 そんなことを日本橋を歩きながら思ったわけです。


 正確に測量したわけではないけれど,恐らく中央通りと銀座通りの規格は車道の幅,歩道の広さを含めて同一のはずです(そのまま歩いていけば,黙っていても銀座通りですからね。)。だけど,日本橋にいるときの方が心なしか開放感があるように思うのです。


 で,思い至ったのが,「空の広さ」だったのです。


 三越本館の高さか,それとも三井本館の高さがディファクト・スタンダードとなったのか,ビルの高さがだいたい一致しています。日本橋界隈では珍しい高層建築となった日本橋三井タワーにしても,表通りに面している高さは敢えて(だろうと思うのですが)三越本館の高さ程度に抑えられています。セットバックさせた高層部分と,もともとの姿を守る通り沿いとを組み合わせる,というような再開発と歴史的建築との共存という部分でも,私には興味深い建物です。あとで,このことに関しては触れてみようと思うです。


 実際,丸ビルのリノベートに関しても,お客さんの視界にまず収まる部分に関しては旧来の建物のイメージを残すアプローチが取られているし,三菱の影響が強い丸の内界隈からも統一感を受け取れましたが,あちらはそもそも道幅がそれほど広くはありません。そのため,日本橋にいるときのような開放感はあんまり感じられないですよね。


 ・・・言うまでもなく,東京駅丸の内口から皇居へと続く道ではないですよ。


 アレは明らかに「別物」です。建築だとか都市計画とかいうレベルではなく,「やんごとなき方」が通られる道,を強烈に意識する作りですよね。なのに,滅多に通らないらしいですが。


 話ズレました。


 グラス・ストラクチュアを前面に採用した(=その代わり,グラス・エリアを支える部分は思いのほかコンサバティブな)コレドのおかげである種の秩序は崩れたかのように見えるけれど,「景観」を守るのはある種の「自主規制」とか,「暗黙の了解(紳士協定)」が大きな意味を持つ。そんなことを思いつつ,こういう視覚的効果というのは,考えてみれば「だまし絵」と同じなんだよな,と思ったわけです。