部分最適。

またまたフットボールとはまったく違う話などを。


 前回,「20年目に思うこと。」と題したエントリを書いたわけですけど。その後,今回タイトルに掲げた言葉をその会社の人間がクチにするのを耳にして,「かなり問題は根深いかもな」と思った次第です。


 なんでそう思うのか。


 安全マージン(のようなもの)は,恐らく“バランス”から生まれる,と思っているからです。


 クルマを開発している立場になって,考えてみましょう。


 あなたが設計しているクルマ,誰に乗ってもらおうと意識しているでしょうか。誰,が具体的にイメージできたとして,その彼であったり彼女は,どういうところで乗るのでしょうか。どのくらいの時間,そのクルマに乗っているのでしょうか。そして,どのくらいの時間間隔で,整備してもらえるでしょうか。使用条件が明確に限定されるレーシング・マシンとは大きく違って,公道を走るクルマはそのスタイルによってある程度イメージされる顧客層はあるけれど,不確定要素がかなり多く見えてくるのではないでしょうか。


 となれば,長持ちさせるため,あるいは不用意に壊されないためにも「どのくらい余裕を持たせるか」という考え方が出てくると思うのです。誰もが丁寧な整備をしてくれるとは限らないし,丁寧な取り扱いをしてくれるとも限らない。そんな状態であっても,不具合が可能な限りでないように配慮する。そのために,余裕という要素は落とせないように思うのです。そして,その余裕は余剰強度というものや「各部のバランス」を取ることでできてくる。もともと設計時の考え方は,そういうものだと思うのです。


 思うのですが,使っているうちにだんだんと各部は劣化してきます。そのときに,バランスを強く意識した整備,修理をするでしょうか。なかなか難しい話でしょう。


 エンジンだけを見る人間はいる。機体だけをチェックする人間はいる。だけど,全体のバランスがどうか,という部分を見る人間はなかなかいない。でも,エンジンが経年劣化していたとすれば,機体にしても同様に疲労している可能性がある。20年前の事故に関して言えば,問題の隔壁の修理だけを取り上げてみても不完全だった可能性があるけれど,隔壁の影響が他に波及したという見方も成り立つ(事故調の結論はそのようなロジック・フローだったようですね)。


 問題が出た部分だけに注目するのではなく,なぜその問題が発生したのか,その原因を探る必要があるはずだし,その原因が分かれば修理すべき範囲が自ずと確定するはずです。ですが,あの会社に関しては,「近視眼的な最適化」が過剰に意識され,「巨視眼的な最適化」という発想が抜け落ちているかのような印象があります。その姿を端的に示してしまったのが,機体整備の現場だった,という感じがします。


 確かに未曾有の航空機事故から20年目の節目,という最悪のタイミングでエンジン・パーツが落下した。そのことはエンジン整備に関する不手際(=OH直後だとか),ということに直結するとは思うけれど,このパーツ落下は部品管理が地上を走る運動体に比べて厳密に要求される,ある意味ではレーシング・マシンに施されるパーツ管理と同様以上の基準が求められる機体整備の難しさを示しているように思います。


 どこか,特定の部分を担当していながら,ひとつの具体的な形になった時を具体的にイメージすることは正直,難しいとは思います。だけど,難しいからと言って,イメージすることを放棄していい,というものでもない。自戒を込めて言えば,難しいからこそ,トライし続けないといけないこと,かも知れません。