アプローチは違えど。

「名選手,必ずしも名将ならず」とか言いますね。


 特に,野球の世界では言われることであります。個人的な解釈を書けば,指揮官自身が選手時代から培ってきたプレー・イメージを的確に(あるいは簡単に)言葉に置き換える「変換能力」に問題がある,場合によっては言葉に置き換える努力を怠っているから,監督としての評価に疑問符が付くのかも知れない,と感じているのです。
 でも,自分から積極的に話しかけるのではなく,選手の方から話してくることを待っているひともいるかも知れないな,とも思うのです。


 監督の描く意図が100%伝わっていないがために,誤解を受けている可能性があるのではないか,と。


 そんなことを考えたのは,遅ればせながら日刊スポーツの記事を読んだからなのです。ということで,日本代表にまつわる話・第2弾を書いていくことにします。


 就任当初からジーコは「選手の自主性」を重視する姿勢を堅持してきたように思います。


 2002年ワールドカップで日本代表が示した到達点は同時に,戦術的な裁量がピッチ上の選手にあまり認められていない“オートマティズム”をベースとする戦術では,何らかの要因によって狂いが生じたときには90分間の間に自律的な修正ができない,という限界を示していると彼は見たのだろう,と思うのです。


 この見方は恐らく正しいだろう,と感じます。


 ただ,「オートマティズムという言葉に代表される戦術的な約束事(ディシプリン)」と「選手のイマジネーションを重視する考え方」は二者択一の関係に立つものではなく,むしろ相互補完的な関係にあるという部分が抜け落ちたかも知れないな,とも同時に思っています。
 単純な比較対象にするわけにはいかないけれど,ルシェンブルゴが“規律”を持ち込むまでのレアル・マドリーは,選手個々の高いポテンシャルだけに依存した,ある意味古典的な美しさはあるものの,「強靱さ」を感じるようなチームにはなっていなかったように感じます。現在の日本代表と微妙に相似形を描いているような気がしていたのです。


 どんな形でも良いから,チームが共有しておくべき戦術的なフォーマットを指揮官がしっかりと提示しておくべきだろう,と思っていたところに日刊の記事であります。


 この指揮官は徹頭徹尾「選手の自主性」を重んじている。しかし,肝心な部分ではしっかりと選手が共通したピクチャーを描けるようにしっかりとした意識付けを行っている。指揮官として「らしさ」を増してきたのかも知れない。そんな印象を受けたのです。そして,スポニチの記事では主将である宮本選手としっかりとした議論を通じてさらに戦術的な摺り合せをしていることにも触れられている。指揮官が持つイメージを選手に伝えるだけではなく,選手が実際のコンビネーションの中からどういう戦術をフォーマットとしておくべきかを監督にも具申する中で,チームとしての戦術を熟成させていく,というプロセスを指揮官自身も望んでいるのかも知れないな,と感じます。


 今までの指揮官のスタイルとは大きく異なるために戸惑うところもあるのだけれど,目指すゴール(=最終予選を突破し,ワールドカップ本戦に駒を進めること)はどのようなアプローチを取ろうとも同じなのは言うまでもない。
 であるならば,現指揮官がベストと思うチーム構築アプローチで目指すゴールに近付いていることを示して欲しい。そういう観点から,キリンチャレンジカップ(UAE戦)を見ていこう,と思っています。