調整か、勝負か。

ひさびさにゲーム以外で「日本代表」に関することを書いていこうかな,と。


 2003年(あるいは,2004年)時点であれば,「勝負にこだわらずして,何にこだわるのか!」と思っていたところでしょう。
 ともすれば忘れがちになりますが,“キリンチャレンジカップ”は単なる国際親善試合ではなく,タイトルのかかった国際Aマッチであることは宇都宮さんのエッセイ(スポナビ)において(特に2ページ目の最終セクションで)明確に指摘されている通りです。そういう観点から言えば,眼前のタイトルを奪取するという姿勢が求められることになります。
 ただ,ワールドカップ最終予選を戦うシーズンでもある2005年ということを思えば,「優先順位」ということも考えておかなければならないように思うのです。特に最終予選を数週間後に控えている現状では,国際Aマッチとは言え“キリンチャレンジカップ”にチームのピークを設定するわけにはいきません。となると,タイトルを奪いに行くことよりも,バーレーンとのアウェイ・マッチに向けてどのような調整をするのか,という視点からキリンカップを捉えることも決しておかしくない,と感じます。


 問題なのは,どういうゲームにも全力でぶつかっていかないと,チームが本来持っているはずの潜在能力を引き出せないかのような印象を持たざるを得ないほどに,チームから「組織性」が見えてこないことかな,と思うのです。


 「キリンカップを「調整」の場として考えるのもひとつの考え方」,と書いておきながら,説得力を自分でも感じないのは,チームの基盤となる組織性(=調整すべき対象)を感じられないからだろうな,とも思うのです。恐らく,宇都宮さん(あるいはスポナビ編集サイド)が「ジーコ・ジャパンは『学習効果がない』?」とキャプションを付けたセクションで書いておられることは,ワタシが持っている印象を明確に文章化されたものだろうと思っています。


 屋号に忠実な形容をするなら,“組み上げただけのレーシング・マシン”のような印象を持ってしまうのです。


 国際親善試合などを存分に利用して“セッティング出し(=チーム全体としての基本的な戦術的確認,徹底)”をしておかなければならないのに,それを怠ってきているために,チーム全体が心理的にある種追い詰められないとその持てる潜在能力をピッチ上で表現できずに終わってしまう。
 具体的に言えば,コンディションが十分に上がっていないセクションによって他のセクションが影響を受け,最終的にチームとしてのバランスを崩してしまうことになる。実戦投入直後であり,ともすればトラブル・シューティングと並行しながら熟成作業を進めなければならないレーシング・マシンのような状況と表現してもおかしくないな,とシロート目ながら思っています。