「社会の鏡」にしないために。

民草さんから大きな宿題をいただいたような気がします。


 同時に,ワタシなりに消化しておかなければならないことだなとも思いまして,今回エントリを立てることにしました。


 本当はコメント欄にてその宿題への解答を出すべきところでしょうが,そう簡潔に収まりそうにもありません。そこで,本来正確な記述はしたくなかった「欧州の闇」に触れることで,“なぜ,スタジアムに政治的な匂いを持ち込むことに過剰反応したのか”という部分を説明することにします。どういうスタジアムを理想としているのか,ということに関しては,以前のエントリで書いてます。そちらをご覧下さいませ。その点にいく途中の話を今回はしっかりすることで,自分の考えを整理してみたいのです。


 というわけで真正面からの解答じゃあないですけど,ご勘弁を(“Full Stop.”って言ったじゃねェか!という突っ込みはナシの方向で勘弁してくださいませ。)。


 そこで,本題に入るにあたって,いつものように参考書を用意しました。


 酒巻さんのセリエAについてのコラム(gooスポーツ-NumberWeb)と,山中さんのイングランドからのコラム(gooスポーツ-NumberWeb)を読んでみてほしいのです。何を感じられるでしょうか。


 「対岸の火事」。そうかも知れない。「こんな事が起きるはずもない」。そうとも言える。かも知れない。
 しかし,その背景まで見れば,そうとも言えなくなってくるのではないでしょうか。


 このケースでは,表層に現われているのは「人種差別」というものであり,政治的な背景を持った主張とは「表面的には」捉えられるものではない,とも言えます。では,ヨーロッパの政治状況はどうでしょうか。冷静に観察すれば,スタジアムで「人種差別」として現われたものが,何を背景としているのか一定程度は読み解けるのではないか。そこで,ヨーロッパの政治状況を必要最低限度で見てみます。
 この点について簡潔にまとめられているのが,辻雅之さんによる西ヨーロッパの政治状況に関するガイド記事(AllAbout)です。ここで注目していただきたいのが,西欧各国で極右勢力が台頭してきた時期です。2001〜2002年です。そして,UEFAが反人種差別週間を定めたのが,2002年10月です。奇妙な一致を見せています。極右勢力の主張を見れば,必ずしも単線的ではないにせよ,一定の因果関係がスタジアムで表面化した人種差別的問題との間に認められるように感じられます。
 そして,先に挙げたコラムのように,いまだにこの問題は欧州連盟,各国サッカー協会,ひいては各クラブの頭を悩ませる問題であり続けています。


 加えて,大野さんやレッズ&ピースのロジック・フローも辻さんのガイド記事の進め方から説明できるように思うのです。恐らく,大野さんたちの懸念と辻さんの懸念はニュアンスこそ違え,同じベースに立っているようにワタシには感じられます。欧州が置かれた社会情勢と,日本の現在の社会情勢は完全な相似形ではないにせよ類似点は複数指摘できるのだから。


 しかし,ワタシが問題にしたかったのは以下の点です。


 思想信条を「無防備に」スタジアムに持ち込んでしまうことで,本格的にスタジアムを政治的に利用しようとするある種の“プロフェッショナル”−それは政治的背景を問わないでしょう−が,彼らに続いて介入の意図を持ってスタジアムに入ってくること,そして“REDS”という一点でまとまっているものが,際限なく崩される萌芽を作ってしまうこと。これは懸念材料になり得ます。そして,スタジアムが一時期のイングランドや欧州の一部クラブのように,「我らがクラブをサポート,応援する場」以外の何かになってしまうこと,それは良い意味での「非日常空間」−端的に言ってしまえば,“REDS Wonderland”が示しているものだとワタシは思っていますが−であるスタジアムを,「社会の鏡」に変えてしまうことにほかならない,とワタシは思うのです。
 そして,現実の危険が出来してからでは恐らく手遅れになる,とワタシは半ば反射的に判断しました。スタジアムには熱狂がある。それだけに,その熱狂を利用しようとする勢力が入り込む危険性もある,ということは指摘しておきたいと思うのです。加えて,ティエリ・アンリのように火消しにレッズのプレイヤーが表立って活動しなければならない事態になれば,迷惑の範囲は大きく広がってしまうことになる。想像力過多,と言われればそれまでだけれど,欧州の歴史,現在を知る身としては過剰反応(過剰防衛)をも辞さず,という感じになったことは否めません。ただ,どちらの側のひとたちにも同じように反応しただろうし,するだろうことは一言付け加えておきます。


 本来,このように自分が懸念を持つに至った背景をしっかりと説明した上で,前回エントリである“Full Stop.”の第3,第4段落に話を持っていく必要があったのですが,今見直してみると大ざっぱですね。曲がりなりにも考えを表に出しているのだから,アカウンタビリティを果たしていないことになる。
 何かについて意見をし,自分の考えを表明するからには,必死になって言葉を探し,順序を飛ばすことなしにしっかり説明を尽くさなければならない。ワタシにとっても,重い教訓をもたらしてくれた話題だったと思っています。