めずらしく。

ワタシとしても賛意を示したい内容だったかな,と。


 いきなりはじめてしまいました。Ernestです。


 何のことを指して,「めずらしく」賛意を示したくなったのか,と言えば。


 理由の分かりやすい(=欧州のトップクラブが多く採用している,となれば最新モードだから間違いがない,ということ!?)システム論を展開したり,など何かとショート・サーキットな欧州礼賛論をブチ上げてくださることで有名なさるお方のコラムを読んで,ひさびさに納得してしまった,ということなのです。


 ワールドカップ最終予選初戦の直後,サポート・スタイルについていろいろな見解(コメント程度のものも含めて)がライター,ジャーナリストの方々から提示されたけれども,今回のコラムがこと「代表戦に関しては」ひとつの解法かな,と感じています。


 「ゲームを食い入るように見つめているひとびとが無意識に発する溜息や歓声」が,何とも形容しがたい迫力を持っていることは確かだろう,とワタシも思います。


 数年前,ハイブリーにマンチェスター・ユナイテッドを迎えたゲームをワタシは生観戦する機会に恵まれたことがあります。ガンナーズがゴールチャンスになりそうなときの「ガタガタッ!」という音。観衆の多くが立ち上がってしまって,座面が跳ね上がった音です。その音とほぼ同時の歓声,あるいは若干のタイムラグを置いてのブーイングのようにも聞こえる溜息。
 同時発生的なチャントも印象的ではあったのだけれども,ワタシの耳に強烈に残っているのは声ではなく,そんな「音」だったのです。


 だからと言って,熱狂的なサポートを否定するつもりなどない。


 むしろ熱狂的なサポートと,大観衆の自然発生的な歓声,溜息のようなものとがある種「共鳴」することで本当の意味での“ホーム・アドヴァンティッジ”ができ上がるのだろう,と感じているのです。そういう「ホームらしさ」のためには,杉山さんが言うようにバックスタンド,メインスタンドにいる観客は「しっかりとゲームを見ていること」が重要な要素だな,と。いい加減にゲームを見ているようでは,誰がボールを持とうとも「何かが起きるかも知れない」という期待感がスタジアムに充満することがなくなってしまうわけですから。


 スタジアムに足を向けるきっかけが特定の選手であっても構わないと思う。ただ,ゲーム開始となったら特定の選手を追い掛け続けるのではなく,ゲーム自体を見つめて欲しい。そして,流れの中でその特定の選手が決定的なチャンスを迎えたときには,その期待感を自分なりのスタイルで表現すればいい。そういったことが積み重なり,チャント,コールと共鳴することで「ホームらしさ」が出来上がっていくはず。


 彼のコラムから,そんなことを考えていました。