ザスパ草津とニッポン・チャレンジ。

書棚の整理をしていたら,面白いモノを見付けてしまいました。


 1992年の“アメリカス・カップ”のビデオです。しかも,かなり徹底して追いかけていたようで,複数発見してしまいました。
 こういう面白い掘り出し物を発見しては,整理は当然中断であります。どんな感じだっただろうと,早速ビデオテープをデッキにセットしてみました。


 福島弓子(呼び捨て失礼。それ以前に,今は鈴木さんですな。)若っけー!!しかし,今じゃあその服はあり得ねェよな!とか,筑紫,ニュースでもねェのに何してる!とか,あるいは加山雄三セーリング語り倒しているよ!など,いまの目線では突っ込みドコロ満載なコメンタリー陣でやっていた番組なのですが,それ以上にニッポン・チャレンジの勇姿を久々に見てちょっと良い気分であります。


 ・・・ごあいさつ遅れました。Ernestです。


 マストに据え付けられ,船尾方向を捉えているオンボード・カムでの映像は,スタート前からすでに駆け引きがはじまり,レーシング・ヨットとしては最大級のIACCクラスで接近戦を仕掛けている場面を収めています。


 その時のクルーの連携は,非常に興味深いものがあります。船首に位置するバウマンは,相手との距離,位置を正確に把握し,タクティシャン(戦略担当)とスキッパーに合図を送ります。バウマンの判断をもとに,スキッパーはギリギリの位置まで艇を相手に寄せていきます。相手が有利な位置,良い風をつかんだ状態でスタートすることのないように,徹底的にプレッシャーをかけながら最適なタイミングでスタートラインを通過しようとする。わけです。
 そのため,グラインダーをはじめとするクルーは戦場にいるかのように動き,怒号(のように聞こえる会話)が飛び交います。頻繁にタッキングを繰り返しながら相手との位置関係を変えるだけに,素早く,組織的な動きが連続することが求められる,というわけなのです。


 当然,スタートしてからも,クルーの有機的な連携がボートスピードに直結することがオンボード映像から伝わってきます。


 ・・・当時,アメリカズ・カップの舞台となったサンディエゴ沖の海面。そこで戦うニッポン・チャレンジの姿と,市民クラブのことをいつの間にか重ね合わせて見ていました。


 南波誠という,ひとりのトップセーラーが長年追い求めてきた夢。

 “アメリカス・カップに挑戦する”というその夢を南波さんとともに追い掛け,積極的に支えた山崎達光さんを中心とする多くのひとびと。セーリング・クルーを一般公募する一方で,クルーを束ねる指導責任者には南波さん,当時マッチレース世界ランク第1位のプロ・セーラー,クリス・ディクソンをスキッパーに招聘し,チームは二次曲線的にその実力を蓄積していきます。
 この時のニッポン・チャレンジはルイ・ヴィトンカップ(チャレンジャー・シリーズ)準決勝敗退に終わりますが,将来性を感じさせる戦いぶりが印象に残っています。その後,3度にわたってアメリカズ・カップ挑戦を続けますが,最終的には財政上の問題から挑戦を断念,という経緯をたどっています。


 このシンジケートがもたらしたものは何だったでしょうか。


 このチャレンジの中で,多くのセーラーが育っています。中には,トップレベルをうかがえるまでの実力を持ったセーラーも誕生しています。「挑戦するだけでは意味がない。やるからには勝ちに行く」。そう言ってのけたシンジケートのトップである山崎さんの気概が,夢を支える力の源泉だったに違いありません。また,その精神はしっかりと,ひとりひとりのクルーに浸透していったと感じられます。その結果として,南波さんの後に続く人材が出てきたのだ,と思うのです。


 ある種のプロジェクト・チームとして捉えた方が良い(=永続性を前提としていない)アメリカス・カップにおけるシンジケートと,永続性を前提としながらトップレベルを狙っていくフットボール・クラブを同列に扱うことに対して,無理があることは十分に承知しています。
 しかし,アメリカス・カップへの挑戦表明以降,ニッポン・チャレンジが示してきた情熱は,クラブを立ち上げようとするひとたちにとって,何かのヒントを与えるものではないか,と感じているのです。


 着実に足元を固めながら,というのも方法論として間違っていないと思います。しかし,南波さん,山崎さんが短期間でシンジケートをトップレベルに引き上げたように,一気呵成にトップレベルを目指して駆け抜けるのも,クラブを作るための最適解なのではないか,と感じます。そう,草津が周辺のひとびとを上手に巻き込みながら,短期間でJ2昇格を成し遂げたように。


 いま,彼らには良い風が吹いている。そう感じます。