同じであって、同じでないことの重要さ。

たとえば,チャイコフスキーであったりベルリオーズだったり。


 彼らが手掛けたシンフォニーを聴くとして,どのフィル・ハーモニーでも同じに響いてくる,でしょうか。確かに,同じではあります。当然ながら,使う楽譜が一致しているわけですし,であるならば大きな枠は同じです。けれど,フィル・ハーモニーによって明確な個性が感じられます。指揮者の個性が落とし込まれるから,でもあるし,当然ながら演奏者の個性もここに落とし込まれることになります。


 浦和,のカテゴリなのにクラシックな話から入っているわけですけれど,このたとえ話,フットボールにも当てはまることかな,と思うところがあるわけです。そんな話をちょっとだけ。


 誰が出ても,浦和なフットボールを。


 この言葉を持ち出すときにイメージするのは,先ほどのたとえ話に当てはめてみると「楽譜」段階のことが多いかな,と思います。戦術的な約束事が,誰が出ていてもしっかりと表現できることを意識して,誰が出ても,という表現になるような印象です。


 では,誰が出ても同じフットボールが表現されるか,それも100%の一致が見られるか,と言えば,そんなことはあり得ません。指揮者の個性,というよりはこのケースですと,演奏者の個性が違うから,ということになるでしょう。指揮者がスコアを読み込んでいるように,演奏者も楽譜からイメージをふくらませていくし,どういう表現をすればいいのか,考えているはずです。そのイメージがすり合わされることによって,フィル・ハーモニー単位で違う,さまざまな演奏が見えてくる。


 スポーツ・メディアさんからの情報を見る限り,磐田とのアウェイ・マッチでは,スターターが変更される可能性が高そうです。コンサート・マスター(阿部選手が,このチームでのコンサート・マスターにあたるのかな,と個人的には感じますが。)には変更がなさそうですが,12スペックなフットボール,というシンフォニーを演奏するにあたって重要な役割を持っている演奏者が複数,変わる可能性がありそうです。であれば,その持っている個性をしっかりと表現してほしい,と思います。フィジカルやフィットネスなどの問題によってスターターから外れる(かも知れない)フットボーラー,彼(ら)と同じことをするのではなく,自分が持っている個性で,違う12スペックな浦和をピッチに表現してほしい,と思います。そして,浦和の幅を広げていってほしい。


 そしてもうひとつ。反発力の大きさを,見せてほしいと思います。