ペイズリーさんにあやかって。

思うツボでありますな,とあるスポーツ・メディアの。


 それこそ笑いをかみ殺しながら,ちょこっと悪意を潜ませた記事を書いている姿が目に浮かぶようで。


 指揮官としても,ちょっと甘い部分があるようには思うのですよ。
 たとえば,戦術交代であります。スターターの段階だと,比較的どのようなフットボールを狙うつもりか,という意図は見えやすいかな,とは思うのです。ただ,均衡がビハインドという方向で崩れましたとか,チームに何らかの刺激を与えなければならないときに,戦術的なメッセージをピッチに示すのが不得手,と言いますか。
 前節で言うならば,攻撃ユニットがトラフィックに陥ったのは,戦術交代で投入した選手の個性が重複してしまっているし,しかもスターターとしてピッチに残っている選手の個性ともかぶる。これでは,似たようなポジショニングを取ってしまうのも道理だな,と。


 さて。戦術交代によって投入された選手たちが,何を求められていたか。


 ちょっと曖昧になってしまっていた部分はありますが,少なくともビルドアップに参加すること,ではないでしょう。ましてや,ボールを迎えにくることでもないはずです。局面で積極的にチャレンジしていくことであって,当然にフィニッシュに関与すること,ではなかったかな,と思います。浦和が狙うフットボールは,インテリジェンスを高い水準で要求するフットボールであるように受け取れますから,「考える」プレーは確かに重要な要素です。


 ただ,それだけではない,というのも確かなことで。


"If you're in the penalty area and don't know what to do with the ball, put it in the net and we'll discuss the options later."


 リヴァプールの黄金時代とともにあった指揮官,ボブ(実際にはロバートさんでありますが。)・ペイズリーさんの言葉です。


 「ペナルティ・エリアでボールをどう扱うか分からなくなったら,ボールを,ゴールネットの内側に置いてこい。ほかにどうすべきか,などの細かいことはあとで話し合えばいい」というようなニュアンスでありますが,フットボールという競技が,最終的に何を必要としているのか,端的に示している言葉でもあるように思うのです。
 セルヒオにせよ,元気にせよ,エリア近くであっても考え過ぎているように思えます。オプションを広げることも大事かも,ですが,最優先に置くべきは違う要素ではないのかな,と。
 フットボーラーが持っていて当然であってほしい,「カッティヴェリア」(正確な訳語が難しいのですが,意味を取るならば,ポジティブな意味でのエゴイズム,とでも言いますか。)が影を潜めてしまっているように感じます。いける,という感触をつかんだのであれば,フィニッシュに持ち込んでしまっていい,と思うのです。


 「考える」ということも大事だけれど,「考え過ぎないこと」も同時に重要,ということではないかな,と思ったりします。