魅力であり「魔力」(全国高校選手権のことなど)。

トーナメント,あるいはカップ戦というものは,「短期決戦」であるがゆえに多様な要素を味方につけない限り高みに至ることのできないものではないかな,と思うことがあります。


 否応なくクラブの総合力を示すこととなるリーグ戦では,実際にピッチ上で表現されるパワーと,オフ・ザ・ピッチでのパワーが巧みに組み合わされていることが“マイスター・シャーレ”に近付くための最も重要な条件ではないか,と思います。また当然のこととして,すべてのゲーム(昨季のディビジョン1で言えば34ゲーム)が等しく重要性を持っているのだから,そのゲームにおいて必ず「勝ち点3(少なくとも勝ち点1)」を奪取する,という強い意思が必要だとも思うのです。


 対して,カップ戦のことを考えてみると。


 カップ戦においても,クラブが持っているパワーは必要だと思うのです。トーナメントの山を一気呵成に駆け上がるためには,間違いなく強烈なパワーが必要だ,と。


 しかし,そのパワーを短い期間で充分に発揮するために,「不確定要素を積極的に呼び込むだけの自らへの確信」とでも言うのか,心理的に常に相手よりも優位に立っていることがリーグ戦以上に重要な要素としてあるのかな,と思うわけです。


 たとえば,相手のゲームにかける高いモチベーションを受けてしまう。


 そんなことがミスを誘発する遠因となり,あるいはゲームの帰趨を左右しかねない重要な時間帯で「隙」を生む要因ともなる。逆に言えば,心理面の充実によって持てるポテンシャルを短期間にしっかりと解き放つことのできたチーム(あるいはクラブ)がトーナメントの山を登っていく,ということになりはしないか。


 そんな部分をはっきりと意識させられるゲームを高校選手権で見たような気がします。


 アウトサイダーとしてみている人間は,時に過去の成績,そこから導かれる伝統(のようなもの)で多くを判断し,“アップセット”などという言葉を使いかねないけれど,冷静に見れば高校は3年間ですべての選手が入れ替わる,ということが必然的について回ります。カップ戦の魔力にも似た魅力が発揮される条件は,最初からかなりのパーセンテージで用意されていると言って良い。


 「優勝候補」と称される国見,あるいは青森山田のようなチームが大会を去る,ということに寂しさを感じないではないけれど,それ以上に大阪朝鮮,そして多々良学園が見せた高いパフォーマンスに心理的な充実を感じたし,駒場で行われた立正大淞南ー遠野戦のように双方が死力を尽くしたゲームには,トーナメントが持つ魔力にも似た魅力が凝縮されているように思うのです。